今日のみ言葉【No.1175】(2015年11月16日)

主なる神は言われる、わたしは生きている
(エゼキエル20:33)

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「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」

トルストイの「アンナ・カレーニナ」の中の一節です。

100軒の幸福な家庭があれば、ほぼワンパターンの生活スタイルに見える一方、100軒の不幸な家庭には100の違った悲劇があるということです。

神はイスラエルに祝福を与えるため、あるひとつのパターンを持って関わっておられました。

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エゼキエル書第20章にはあるパターンの繰り返しがあります。

(1) 主なる神の恵みが与えられる
(2) ところが民は神から離反する
(3) 主は怒られるが裁きを思いとどめる
(4) その理由の解き明かし

なぜ神は反逆する民に対する怒りを思いとどめられたのでしょう?

その理由はこうです。

「わたしの名が彼らの目の前に、はずかしめられないためである。」
(エゼキエル20:9)

神ははっきりと

「わが名のために行動した。」
(エゼキエル20:22)

と宣言しています。

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これだけを読むと、

「神様とはずいぶん世間体を気にする方だなあ」

という印象を持ちますが、そうではありません。

神はご自分が選んだ人を信頼しています。

それはかなり強い信頼なのです。

ちょっとやそっとのことでは見限りません。

むしろ、背反のイスラエルを造り変え、聖なる民へと変えていくという思いを持って関わっておられるのです。

「そしてわたしは異邦人の前で、あなたがたの中に、わたしの聖なることをあらわす。」
(エゼキエル20:41)

神の選びがいい加減なものではないことを周りの人々に示すために、

「わが名のために行動した。」
(エゼキエル20:22)

という表現で書かれています。

決してあきらめない。

そこには力強い命があるからです。

「主なる神は言われる、わたしは生きている」
(エゼキエル20:33)

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私は様々な学校でカウンセリングの授業をしてきましたが、必ず学生さんをほめることにしています。

ただほめるのではなく、一般の基準では決してほめないだろうという人をほめるようにしています。

たとえば、再提出のレポートを期限遅れでやっと出した人に対して、

「できが悪くて再提出なのに、その上、締め切りも守れないんですか?この先、思いやられるなあ。今からしっかり直しておかないとダメですよ。」

とは言わないようにしています。

「よく出せたねえ。本当は出したくなかったのに、そういう自分を服従させて書いたんだろう。よくやったよ。」

という感じでほめます。

風邪をひいている学生に対して、

「体調管理がなってないよ。他の人にうつしたらどうするの。」

とは言わず、

「頑張って出てきたんだ。根性あるなあ。それくらい勉強しようという意欲があるんだな。」

と言います。

すると今まで私の授業で寝ていた彼ら彼女らは、その日、打って変わって目を見開き、私の話を聞いてくれます。

「もうこれからは寝ないで、興味と関心を持って私の授業を積極的に聞いてくれるだろう」

と思って翌週行くと、元の木阿弥でやっぱり寝ています!

ここで神は私の心に語ります。

「この結果で見限ったら、お前の中に命がないということだ。命があれば続けられる。ほめ続けなさい。」

「彼らの中にも命があることを信じなさい。命あるものは必ず成長する。それを信じなさい。」

神はこうやって学生さんだけでなく、むしろ私自身の命を強め、成長させてくださっているのです。

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「わたしは生きている」とおっしゃる神と共に今日も歩んで参りましょう。

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