今日のみ言葉【No.1163】(2015年10月24日)

「彼らは言う、『主はわれわれを見られない。主はこの地を捨てられた』と」
(エゼキエル8:12)

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授業中おしゃべりをしていたA君に、先生が、

「A君、黒板のこの問題を解きなさい」

と前に出て来させました。

A君は、黒板のところまで来ましたが、

「え、先生、意味わからないっス。何で俺が教えられてもいないことをここでやらなきゃいけないんですか!」

と少々キレだしました。

先生、少しも焦らず、他の生徒たちの方を向いて、

「何をやるんだっけ?」

と尋ねると、一斉に、

「○○で〜す!」

という返事。

彼は赤っ恥をかきました。

先生は、

「じゃ、A君、私と一緒にやろう」

と黒板の問題を彼と一緒に解き始めました。

先生の目的は、彼を懲らしめることではなく、授業の内容を身につけさせるためだったからです。

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神はイスラエルを愛するがゆえに罰を下し、それで悔い改めることを期待していました。

しかしイスラエルはその愛に報いる方向から大きく離反してしまいました。

エゼキエル書第8章には、事もあろうにエルサレム神殿の中での偶像礼拝が行われている幻をエゼキエルが見せられたことが記されています。

そこには男女の区別なく、一般民衆だけでなく、リーダー格の長老たちもいました。

国を挙げて神に背を向けていたということです。

「主の宮にその背中を向け、顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた。」
(エゼキエル8:16)

神は彼らに対し、愛をもって接してきました。

しかしその結果は、

「彼らはこの地を暴虐で満たし、」
(エゼキエル8:17)

という結果でした。

イスラエルの首都エルサレムが陥落寸前の状況となり、彼らは心を入れ替えて神に向かったかというとそうではなく、

「彼らは言う、『主はわれわれを見られない。主はこの地を捨てられた』と」
(エゼキエル8:12)

考え、別の神々に助けと救いを求めたのです。

その状況を既にバビロンに捕囚されていたエゼキエルに幻として神はお見せになったのです。

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北イスラエル王国に対して

「ああ、アッスリヤはわが怒りのつえ、わが憤りのむちだ。」
(イザヤ10:5)

と、神はアッスリヤという外敵を神の裁きの道具として用いられました。

それは民を悔い改めさせるためです。

バビロンは南ユダ王国に対する懲罰的教育の器です。

神は決して民を捨てたわけではないのです。

しかし、真の神を信じていれば、自分たちの生き方を変える方向に進まなくてはなりません。

そこで、自分たちは今のままで何も変わらなくて済むように、他の神々という存在を利用し、依存し始めたのです。

「主はわれわれを見られない。主はこの地を捨てられた」

というのは、自分たちを変えずに正当化できる格好のフレーズでした。

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しかし神は約束の民を捨てることはありません。

バビロン捕囚はイスラエルの民を新たに生まれ変わらせるためでした。

苦難はしばしばその与えられた意味がわからないまま続きます。

いつまで苦しみが続くのかある程度わかっていれば、耐える見込みも希望も出てきます。

いつ終わるのかわからない苦しみが一番苦しいのです。

しかし神の与える苦難には、私たちが分からなくとも、与えられた意味があり、限られた期間が定められています。

そして、苦難がその目的を果たした時点で神は私たちをそこから解放して下さり、さらに大きな者へと成長させて下さるのです。

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神は今日も私たちを見ておられます。

神の愛が見えない日々であっても、神の愛は真実であることを信じ、今日の一歩を踏み出して参りましょう。

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