今日のみ言葉【No.1071】(2015年 6月26日)
しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。
(イザヤ40:31)
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人はある年齢に達すると、
「私の持ち時間はあと何年あるだろう」
と気づきます。
人生のどこかで、今まで生きてきた時間より、これから生きるであろう時間のほうが短いのだと悟るのです。
ここがある意味、人生の分かれ目です。
「あと何年として、その限りある時間をどう過ごしたらいいか」
と考える人は、臨終の直前、心安らかに死と向かい合えることでしょう。
しかし、
「そんなことより今が大事」
と、せっかく神様から提示されたチャンスを無視して進む人は、必ずやってくる死の時に乏しい備えで臨まなければなりません。
人生の最後の時が、「未練たっぷりの時」となるか、「生涯最良の一瞬」となるか。
選択のチャンスが与えられている間に、それをしっかりとつかんでいきたいものです。
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イザヤ書第40章からは回復と慰めのメッセージが続きます。
バビロンに捕囚された民の多くがこの異国の地で死に絶え、この国の住民としてずっと生きるとしか考えていない2世・3世が活動していた時期での預言です。
彼らにとって、イスラエルは故郷ではなく外国であり、エルサレムは知らない土地です。
ようやく人々の信用を得、根付いてきたバビロンの地で生きることの方が、全くゼロから始めるエルサレムでの生活よりずっと安全です。
しかしイザヤは、神の裁きの時は終了し、ここから解放され、新たな時代が始まると民に語りました。
事実、永遠にその繁栄が続くかと思われたバビロンはペルシャに負け、神はペルシャ王クロスの心を動かし、捕囚の民にエルサレム帰還の勅令を出します。
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ここにおいて、帰った者と帰らなかった者の2つに分かれたのです。
聖書は、バビロンに残る選択をした者たちを
「罰(ばち)当たり者め!」
などと責めてはいません。
勇気を持って帰還した者達の名前と人数がエズラ記とネヘミヤ記に残されているだけです。
この人たちは徒歩で1000キロ以上の道のりを歩き、見るも無残に荒廃したエルサレムにたどり着きました。
その後も幾多の試練の中を通らなければなりませんでした。
それならバビロンに残った方が利口であり、その方が安定した幸せな生活を送れたのではなかったのでしょうか?
エルサレムに帰還した人々は貧乏くじを引いたのではなかったのでしょうか?
ただ一つ言えることは、彼らこそ
「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」
(イザヤ40:31)
という神の御言葉の約束を実感した人たちだったということです。
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人生には様々な選択があり、それが正しかったかどうか、生きている間に判断できないこともあります。
しかし、神の言葉に従った者だけが、神の言葉の真実を味わうのです。
それが本当だと証明されたから従うのではありません。
従って、その通りに生きてみて、
「神は真実であった」
としみじみ振り返ることのできる人生。
それが神を信じる人生なのです。
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御言葉に従う一歩を踏み出す今日として参りましょう。
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