今日のみ言葉【No.1070】(2015年 6月25日)
ヒゼキヤは彼らを喜び迎えて、宝物の蔵、金銀、香料、貴重な油および武器倉、ならびにその倉庫にあるすべての物を彼らに見せた。
(イザヤ39:2)
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イザヤ書第39章にはヒゼキヤ王の大失敗が記されています。
病気全快のお祝いにやってきたバビロンの使者に、国の財宝全てを見せてしまったのです。
彼は浮かれてしまったのでしょうか、あるいは、まだ大国ではなかったバビロンに自国の優位性を示そうと思ったのでしょうか。
とにかく言えることは、彼の慢心であり、
「私共など、まだまだ至らない国です」
という謙遜さの欠如です。
イスラエルの財宝を見たバビロンの使節の心には、これを欲しがる心が起きました。
「見る」と欲しくなることは、エデンの園のエバの例から見て明らかです。
彼女は、神から禁じられていたにもかかわらず、蛇にそそのかされ、園の中央の木の実を見ると、欲しくなって食べてしまいました。
「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ」
(創世記3:6)
バビロンは後にイスラエルに攻め入り、この財宝をことごとく奪い去りました。
それだけにとどまらず、民は何百キロも離れたバビロンまで連れて行かれ、捕囚として働かせられたのです。
イザヤの預言の通りです。
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自分の人生に与えられているものは、全て神からの贈り物であり、自分に所有権は無いと知っておくこと。
これがヒゼキヤを反面教師として学ぶ時に得られる最大の知恵なのではないでしょうか。
彼がなぜ財宝を見せびらかしたのか。
それらを自分の力で得たものだと思い込み、自分の力を誇示したかったからではないでしょうか。
神の宝を自分のものとして示すこと。
私たちも陥りやすい過ちです。
一方、謙遜に生きるとは、「自分はダメな存在だ」と自分を責めて打ち叩き続けることではなく、
「神の力によって今日も生かされている」
ということを確認しながら生きていくことでしょう。
ここに、浮かれず、騒がず、着実に歩んでいく人生の道があります。
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クリスチャンの詩人、水野源三さんの詩集のタイトルのように
「今あるは神の恵み」
と思いつつ、今日の一日を歩んで参りましょう。
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