今日のみ言葉【No.1026】(2015年 4月17日)
わたしは夜、床の上で、わが魂の愛する者をたずねた。
(雅歌3:1)
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「夢でもし逢えたら 素敵なことね あなたに逢えるまで 眠り続けたい」
多くのアーティストがカバーしている「夢で逢えたら」(大瀧詠一作詞・作曲)の一節です。
恋人と会えない中、夢の中ででも会いたいという切ない心情が身にしみてわかるような気がします。
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雅歌第3章では、女性が夢の中で愛する男性と出会うシーンが描かれています。
それだけでも十分に芸術性・文学性はありますが、聖書は神と出会うために書かれた書物ですから、そのような意図を汲んで読んでいく時、最も適切に中心的メッセージをつかむことができます。
雅歌では女性が人間側、男性が神の側を表していると解釈されます。
神と人間との理想的関係とは、
「わたしは夜、床の上で、わが魂の愛する者をたずねた。」
(雅歌3:1)
と表現されるほどの愛の関係なのです。
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さて、夜な夜なふとんの中で神を慕い求めるほど、神を愛している自分でしょうか?
「苦しい時の神頼み」という言葉がありますが、自分にとって助けが必要な時は必死になって祈り求めるでしょう。
しかし、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という諺通り、試練が過ぎ去れば、さして神に用事はありません。
このように人間の愛は、相手が自分にとって価値がある時だけ愛するという「エロースの愛」です。
ですから「御利益信仰(ごりやくしんこう)」という言葉が生まれてくるのでしょう。
一方、神の愛は、相手が自分にとって価値があろうがなかろうが関係なく愛する「アガペーの愛」です。
私たちの行いの善し悪しに関係なく、毎日太陽を昇らせてくださる神様に私たちは愛されているのです。
この愛で愛されていることを徐々に知り、実感していく先に、
「わたしは夜、床の上で、わが魂の愛する者をたずねた。」
(雅歌3:1)
と表現されるほどの神への愛が生まれてきます。
はじめから無理して
「愛する主よ、私はあなたを心から愛しています」
などと体裁をつくろう必要はありません。
神はありのままの私たちを愛してくださるのですから、自分のペースで自然体で、導かれるままに素直に進んでいけばよいのです。
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N子さんは不登校の娘さんを持つ母親です。
問題の解決の糸口を求めてカウンセリングスクールに来られ、礼拝にも来られるようになりました。
ただそれは神の言葉を聞きに来たのではありません。
礼拝の後のお茶の席で、不登校児を持った先輩の親御さんたちからの
「そりゃ大変だ」
「そういう時期は通るね〜」
「大丈夫だ、何とかなる」
という慰めと励ましを求めに来ていらっしゃったのです。
むしろ、その言葉を聞くまでは帰れないといといった雰囲気で、礼拝メッセージはそっちのけでずっと遅くまで話し込んでおられました。
やがて彼女は、
「娘は娘。私は私。私が神にあって自立してしっかりしていることが大事なんだ」
と悟り、洗礼を受けられました。
それからは祈りの中で娘さんを神にゆだね、ことさら不登校のことで心を騒がせることはしないようにしました。
N子さんのぼやきは、だんだん
「感謝だね、感謝」
と自分に言いきかせるような言葉に変わっていきました。
そうは言っても心に波風が立ってどうしようもないことがあります。
その時は毎週の礼拝の話を聞き、その後のお茶飲みの席で話をし、先輩方に話を聞いてもらい、なんとかかんとか切り抜けていかれました。
あれから10年以上の月日が過ぎ、中学で不登校をした娘さんは高校入学後一日も休むことなく学校に通い、就職し、この春結婚なさいました。
今やN子さんは不登校児の親の先輩として、後輩の親御さん方へ慰めと励ましを語る役目を担っておられます。
神はこのような形で彼女の人生に愛の導きをなされたのです。
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今日もあなたのペースで、素直に神の導きに従う一日として参りましょう。
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