今日のみ言葉【No.871】(2014年 7月18日)
貧しい者をかえりみる人はさいわいである。主はそのような人を悩みの日に救い出される。
(詩篇41:1)
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今日の聖句の背景にあるのは申命記の御言葉です。
「その貧しい兄弟にむかって、心をかたくなにしてはならない、…、その必要とする物を貸し与え、乏しいのを補わなければならない、…、あなたの神、主はこの事のために、あなたをすべての事業と、手のすべての働きにおいて祝福されるからである。」
(申命記15:7-10)
困っている人に対して親切をすれば、それはやがて自分に対する良き報いとなって帰ってくる、とは何となく打算的な世渡り術の一つのようにも思えますが、ここではその僅かな希望にすがらざるを得ない状態にあったのです。
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この詩篇を書いたとされるダビデは、この時、病の床にいたようです。
そして自分に対して敵意を持つ者も素知らぬ顔をして見舞いのためにやって来ました。
彼はダビデに面と向かっては言いませんでしたが、外に出て悪口を言いふらしたのをダビデは知ります。
それが5節と8節です。
「いつ彼は死に、その名がほろびるであろうか」
「彼に一つのたたりがつきまとったから、倒れ伏して再び起きあがらないであろう」
つまり、
「ダビデがどうだったかだって?ああ、あいつはもうダメさ。あの世に行く日も近いね。」
「あれはたたりだから治るはずがない。二度と起き上がれるもんか。いい気味だ。」
と言っているのです。
それだけならまだしも、
「わたしの信頼した親しい友、わたしのパンを食べた親しい友さえもわたしにそむいてくびすをあげた。」
(詩篇41:9)
と、今まで信頼していた友人にも見捨てられました。
これはイエス様もイスカリオテのユダを通して同じ事を体験し、この詩篇第41篇を引用しておられます。
「あなたがた全部の者について、こう言っているのではない。わたしは自分が選んだ人たちを知っている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしにむかってそのかかとをあげた』とある聖書は成就されなければならない。」
(ヨハネ13:18)
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このような絶望と悲しみの中、ダビデは神の約束によって自己を励まします。
「貧しい者をかえりみる人はさいわいである。主はそのような人を悩みの日に救い出される。」
(詩篇41:1)
どんな小さな神の約束であっても、それに寄りすがるのです。
そして神の救いと助けが来ることに希望の拠り所を置くのです。
生きておられる神は必ず何がしかの形で動かれます。
それを信頼して待つ間に、私たちの心は強くされていくのです。
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私たちの教会に50年待って夫を洗礼に導いた方がおられます。
50年の山あり谷ありの人生の一部を聞かせていただいたことがあります。
それは何百回となく受洗の願いを「あきらめさせられた」50年間のお話でした。
彼女は夫の洗礼を
「全くあきらめて、なおも祈り続ける」
ことをしました。
我が力では不可能。だからあきらめる。正確には「あきらめさせられる」。
主の力では可能。だから祈り続ける。正確には「祈らされ続ける」。
この相矛盾するような二本立てで生きた50年の結果として、今共に夫婦肩を並べて礼拝に出席しておられます。
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あなたが今日すがる神の約束は何ですか?
その約束から力を得、今日の一日を一歩でも先に進ませていただきましょう。
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