今日のみ言葉【No.836】(2014年 5月31日)
主はわたしの泣く声を聞かれた。
(詩篇6:8)
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悔い改めの詩篇と言われるものが7つあります。
興味のある方はお開き下さい。
詩篇6、32、38、51、102、130、143篇です。
これは
「私が悪かったです。すいません。」
としきりに頭を下げる公開謝罪会見のようなものなのでしょうか?
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詩篇第6篇の記者は重篤な病の床にありました。
死に直面していたのです。
しかもその病は自分の罪が招いた結果のようです。
彼は病の苦しみを神の裁きの結果として受け止め、
「あなたの激しい怒りをもって、わたしを懲しめないでください。」
(詩篇6:1)
と祈り、延々と苦しみからの解放を訴えます。
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ところが、8節からガラッと希望の歌へと転換します。
癒されたからでしょうか?
いいえ、病気が治ったとは記されていません。
転換点は、
「主はわたしの泣く声を聞かれた。」
(詩篇6:8)
と彼がはたと気づいたことです。
病の苦痛と死の恐怖に怯える彼にとって、神の姿は、罪の審判者として、そして生殺与奪の権を持つ圧倒的支配者としてしか目に映っていませんでした。
ところが、その恐ろしいはずの神が、自分のすすり泣く声をじっと聞いておられることに目が開かれたのです。
神は自分の頭の上に鉄槌を下す神ではなく、愛の神である…。
このように神認識が変わることが「悔い改め」なのです。
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罪の告白や行動の変化は、この「悔い改め」が結ぶ実であり結果です。
神は病の床にいる私のそばにおられ、私の泣く声をじっと聞いておられる方。
私の苦しみを共に味わわれ、そこから一歩も動かず、逃げようとなさらない方。
むしろ、その苦しみを十字架で担われ、軽い荷と交換し、休みを与えてくださる方。
この神の見え方の変化が悔い改めであり、そこから人生は新しい流れが始まっていくのです。
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117の時報やNTTドコモの留守番電話サービスのアナウンスはコンピューターが作る音声ではありません。
中村啓子さんというクリスチャンのナレーターの声です。
業界のトップとして人々の羨望の眼差しを受け、やれ買い物だ、海外旅行だ、とこの世の幸福の絶頂にいた39歳の時、腹部にガンが発見されます。
幸い手術は成功し健康を取り戻しましたが、入院中、仕事仲間は誰もお見舞いに来ませんでした。
「私は能力だけを買われていたのだ…」
「このまま死んだら薄っぺらな人生で終わってしまう…」
彼女は、
「人に愛されないのは、私が本気で人を愛したことがないからだ。」
と考え、人を愛することを学ぶために教会に行き始めました。
しかし、愛そうとする中村さんが出会ったのは、自分の罪を赦し愛して下さる神様の愛でした。
洗礼を受けた彼女は、幸せの価値観が180度変わりました。
自分の欲望を満たすことが幸福だと考えていたかつての姿から、誰かが自分の声を通して、本当の愛、本当の幸せとは何かと考えてくれるきっかけを作ることが幸せだ、という姿に変えられたのです。
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人生には新しい流れが始まる時があるのです。
神の愛に目を止め、キリストの十字架の愛に触れるところからその流れは始まります。
今日もその神の愛に触れ続ける一日として参りましょう。
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