今日のみ言葉【No.631】(2013年 8月10日)
わたしが命じるのではないか。雄々しくしなさい。勇ましくしなさい。
(サムエル記下13:28)
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サムエル記下13章に書かれてあるのは、ダビデ家のスキャンダルです。
近親相姦と兄弟間の憎悪、殺人。
そして、自分も同じ姦淫の罪を犯したため、子供たちの罪を裁けないダビデの姿…、と目を覆うほどの内容です。
この章に「神」という言葉は使われていません。
すべて人間の思いでなされた行状がありのままの姿で記述され、記録に残されているのです。
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今日の聖句の、
「わたしが命じるのではないか。雄々しくしなさい。勇ましくしなさい。」
は、
「わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。」
(ヨシュア記1:9)
とよく似た言葉ですから、大変素晴らしいように感じます。
しかし、これはアブサロムが自分の兄弟アムノンの罪を罰し、妹タマルの恨みを晴らす意味で行ったことです。
しかも彼は自分で手を下さず、
「わたしがあなたがたに、『アムノンを撃て』と言う時、彼を殺しなさい。」
と、若者たちが実行犯となるようにさせました。
神無き世界では、素晴らしく聞こえる言葉も、神抜きの言葉である限り、人間の欲望達成の手段として存在してしまうのです。
神を主格とし、神が語られた言葉なのか、それとも、人間が主格となった言葉なのか、それを見分けなければなりません。
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大阪池田小事件は8人の小学生が犠牲者となった悲惨な事件です。
そのうちの一人に、池田五月山教会幼稚園の卒園児がおられました。
その当時の園長先生が、
「この子はお祈りが好きだった。祈ってあげて欲しい」
とのお母さんの言葉に心打たれ、枕べで祈ったそうです。
なぜこのような事件が起き、何の落ち度もない子供たちが死ななければならなかったのでしょうか?
それは
「わからない」
というのが現状出せる中で最も苦しみの少ない答なのではないかと思われます。
なぜなら、そのような問いに対する模範解答はいくつもありますが、その答でご遺族が納得するとは限りませんし、逆に心の傷に塩をぬってしまう場面もあるからです。
ただ、私たちは、私たちのできる範囲で神の愛と御心を行うこと。それを神様は求めておられるのだと思います。
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宅間守死刑囚は遺族に対する謝罪の言葉は一切無く、2004年に刑の執行がなされました。
その後、遺体は獄中結婚をした女性が引き取られましたが、最後の葬儀は大阪市内のキリスト教の教会で行われたそうです。
念のため付け加えておきますが、彼は獄中で悔い改めて洗礼を受けたという事実はありません。キリスト教の信者ではありません。
「わからない」という出来事に対し、神の愛と御心を行うとはこのようなことではないでしょうか。
神を主格として生きる最高の生き方は、神のゆるしを届けるパイプ役として生きることなのです。
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神の赦しを受けた者だけが神の赦しを届けることができます。
罪赦された恵みを心いっぱいに受け、今日も一日、あなたのできる範囲で赦しを届ける存在として生かされて参りましょう。
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