今日のみ言葉【No.1910】(2018年12月22日)「 手放す」

イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。
(マルコ10:27)

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親子のジョークをひとつ。

5人の子供を持つ父親が子供たちをお祭りに連れて行き、くじを引いたところ、おもちゃが当たりました。

ちょうどいい機会だと思ったので、お父さんは子供たちに「誰がこのおもちゃをもらえるだろうか」と尋ねることにしました。

「この中で誰が一番素直かな?」

子供たちは「う〜ん」と言ってお互い顔を見合わせています。

そこでお父さんが続けて

「誰がママに口答えをしない?」

「誰が一番ママの言う事を聞くかな?」

と尋ねると、5人の子供たちは降参したような顔でこう答えました。

「分かったよ。おもちゃはパパの物だよ」

一番ママの言いつけに従順なのはお父さんだったようです!

さて、天地万物の造り主、天の父なる神に一番従順だったのはイエス様です。

そのキリストの従順が不可能を可能にした原動力だと聖書は表しています。

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今日の聖句の

「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」
(マルコ10:27)

だけを取り出して、

「自分の望みを神にかければ全てはかなう。なぜなら神は全能者で不可能はないから」

と解釈すると失敗します。

語られている文脈や前後関係を無視しているからです。

ここでは

「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」
(マルコ10:25)

と、人間の所有意識や執着心が救いの大きな妨げになっていることをイエス様は述べています。

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人は自分の持っているものを手放すことができないのです。

それは自分の所有物である時もありますが、イエス様が突いておられるのは人間の

「私は正しい」

という意識です。

人は自分が神の前で罪ある存在であると認めなければ救われることはできません。

しかし、

「わたしのどこが間違っているのか」

という自分の義を持ち続けている限り、神の義は得られません。

確かに、人に後ろ指差される覚えは一切なく、清廉潔白の人生を生きてきたかもしれませんが、どこかでそれを手放し、神の義に乗り換えなければならないのです。

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当時の弟子たちの考えでは、豊かに富んでいることは神の祝福を受けている証明であり、その人こそ救われていると思っていました。

ところがイエス様の言葉は

「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」
(マルコ10:23)

です。

彼らは混乱してしまいました。

そこで、イエス様は彼らを見つめてこう言われたのです。

「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」
(マルコ10:27)

それはちょうどおもちゃの「子ども銀行券」を、日本銀行発行の正式なお札に換えてあげるというようなものです。

イエス様が人間の発行する「子ども銀行券」を全部買い取って、父なる神の正式なお札に交換可能にしてくださったということです。

そのためにどのくらい莫大な財産を払ったのでしょうか。

それはキリストの命の犠牲です。

イエス様は父なる神の御心に徹底して従順であられ、十字架について神の子としての命を全人類のために捧げて下さいました。

この従順と犠牲があったからこそ、父なる神からの罪の赦しと永遠の命という途方もない恵みが人間にもたらされたのです。

「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」
(マルコ10:27)

この言葉の背後にどれほどのキリストの覚悟と犠牲と従順があったかに思いを馳せたいものです。

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自分の思いに従順になるのでなく、神の思いに従順である時、

「神はなんでもできる」

という世界が開かれていきます。

あなたの思いを神にゆだね、手放し、そして与えられる神からの思いを胸いっぱいに吸い込む今日として参りましょう。

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