今日のみ言葉(2011年6月10日)【No.82】
「わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これを
もってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否
かを見なさいと、万軍の主は言われる。」
(マラキ3:10)
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今日の聖句は聖書の中でも例外中の例外の聖句です。神を試みよ、と言っているからです。
イエス様が40日の断食後サタンの誘惑にあった時、「主なるあなたの神を試みてはならな
い」という御言葉でサタンを追い払いました。
神を試してはならないのです。
それを神ご自身が、試みてみなさい、と言うのですから、献げる恵みに関して神様は相当
の自信を持っていらっしゃるようです。
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収入の十分の一を献げる「什一献金」の根拠はこのマラキ書の言葉にあります。
但しこれは旧約の律法です。新約の時代には10分の1という数字にとらわれずに自由な心
で献げるようにと言われています。
「各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべ
きである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。」
(第2コリント9:7)
教会で献金をする場合、まだ子供の時は親が額を決めてやらなければなりません。子供は
まだ未成熟ですから、本質を理解せず、「じゃ、1円だけ!」などとなり、自分の欲や形
式に流れてしまうからです。
大人となり成熟すると、自由という意味がわかりますから、神の愛に応答して相応の額を
自分の気持ちとして献げられます。
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神はどのくらいの量を献げたか、とか、献金の額を見るのではありません。
恵みの神であることを信じ、その神に信頼を置いて自分の生活を御言葉に賭けて生きるそ
の「心」を見ておられるのです。
旧約の時代は、収入の十分の一を献げる、という目に見える形で現実を生きてみなさいと
勧めています。そして、献げた以上に神が恵みを下さる方であることを体験しなさいと私
たちに語っているのです。
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小学生の英語教室をしていた時のことです。あるクリスチャンのお母さんは、ことある事
に献金をする方でした。
「これは母が退院した感謝献金です」
「子供が進級できた感謝献金です」
と、千円・二千円を入れた茶封筒を持ってこられるのです。
その方は他教会の方でしたので、私たちに献金をする義務も必要もありません。
しかし、額の大小でなく、感謝をもって献げるこのお母さんの気持ちは、鈍感な私にも伝
わってきました。
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このお母さんの普段から献げる心に、神様が天の窓を開いて下さった、と感動した出来事
がありました。
英語教室のクリスマスパーティーの時です。先生が用意したケーキとお菓子の取り合いが
始まり、自分こそ多くもらおうと大騒動です。
ところがそのお母さんの子供だけは別でした。
まず弟の方がカバンの中から自分が買って用意していたお菓子を取りだし、みんなに分け
始めました。
チョコレートの数が足りないことがわかったお姉さんの方は、自分の分を、「パキン、パ
キン」と割って、みんなにあげたのです。
大騒ぎだった教室が静かになり、不思議な雰囲気に満たされました。
お母さんの当たり前のように献げる姿が、与え分かち合うことが当たり前の子供を育てた
のです。
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今日も心一杯、神に捧げて参りましょう。
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