今日のみ言葉【No.1647】(2017年11月14日)「 従順」

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
(ピリピ2:6-8)

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昔の高校には「名物教師」がいたものです。

英語のM先生の授業では毎時間英単テストがあり、不合格の者には体罰辞さじという勢いで迫られました。

さて、厳しい一面、人情味あふれる熱血先生が語った一つの言葉が私の人生に多大な影響を与えました。

「いいか、素直な奴が伸びるんだ!」

私はそれを信じました。

その先生のお陰で、今や一人でアメリカに行って帰って来られる基礎的な英語力がついたのだと思います。

素直さ、従順。

これが人として生まれたイエス・キリストの最大の特徴でした。

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最初の人アダムと第2のアダムであるイエス・キリストは、人間であるという点で全く同じでした。

そして、両者とも神のかたちに造られた全く罪のない者と宣言されました。

しかし後にサタンの試みにあった時、その選択の仕方によって二人の運命は全く正反対に分かれました。

アダムは神の命令に意図的に反逆しましたが、第2のアダムは「十字架の死に至るまで従順」であられました。

アダムは無制限の自由が欲しくて禁断の木の実に手を伸ばしましたが、イエス・キリストはそれを手放して神への従順の方を選び取りました。

その結果、アダムによって全人類に罪が入り、死が来ることになりました。

しかし第2のアダムにより全人類の罪が赦され、キリストの救いを信じる者に永遠の命がもたらされました。

「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである」
(第1コリント15:22)

人間は万能ではないのです。

人間は神が与えられた制限された範囲内でのみ自由であり、その中で神の御心を受け入れていく時に、真の自由を体験して生きる存在なのです。

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聖路加国際病院の日野原重明先生が105歳で天に召されました。

先生の最後の本『生きていくあなたへ』(幻冬舎刊)は、一つ一つの質問に答える対話形式で綴られています。

その最初の質問は、

「105歳になられた日野原先生、死ぬのはこわくないのですか?」

というものです。

それに対して日野原先生は驚くような答をしています。

「恐ろしい……。あなたにそう聞かれるだけで恐ろしい……」

生きることの達人たる日野原先生でも死を恐れているというのです。

先生はそのことを、自分にとっての死はまだ経験していない未知の分野なので恐れが湧くのだとご自分で説明しておられます。

しかし日野原先生はこう続けて記しています。

「人間は生まれた瞬間から死ぬことが決まっています。死と生は切り離すことのできない一続きのもの、いや同じものなのです」

「僕達は死ぬことから逃れられないし、逃れなくてもいい。死だけを凝視するのではなく、目を背けるのでもなく、ただただ今生きている自分の命を輝かせていくこと。それこそが死と一つになった生を生きるということなのです」

人生には神が定めた死という限界があります。

その中で神に従順に生きる時、日野原先生のように周囲に祝福を与えながら命を輝かせて生きる人生を送ることができるのです。

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神の御言葉に素直に従い、天からの祝福に満たされる一日として参りましょう。

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