今日のみ言葉【No.1648】(2017年11月15日)「 わたしは誰?」
わたしを見た者は、父を見たのである。
(ヨハネ14:9)
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時の権力者は誰がなっても批判を受けます。
たとえばそれは歴代首相につけられた「あだ名」でやんわりと表されます。
ノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作氏は「佐藤無策」
日本列島改造論の田中角栄氏は「今太閤」
中曽根康弘氏は「風見鶏」
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ではイエス・キリストはどうだったかというと、驚くほど多くの名で呼ばれています。
ある律法学者は「先生」と呼び、高貴な教師として見ました(マタイ8:19)。
ダビデ王時代の再来を期待する人々は、国を復興する革命家として「ダビデの子」と呼びました(マタイ12:23)。
また、イエス様を「食をむさぼる者、大酒を飲む者」と非難中傷する人たちもいました(ルカ7:34)。
他にも「大工の子」「罪人の友」「大預言者」「神の聖者」等、様々です。
これらは人々が「人間としてのイエス」を見た時の名称です。
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そしてイエス・キリストは弟子たちに対して最終的にこう問われました。
「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」
(マタイ16:15)
この質問は気軽に答えられるものではないでしょう。
また、強制されて「イエス様は救い主です!」と模範解答を出したり、人間関係の妥協の産物として表面上だけ相手に合わせて言っておけばいいというものでもありません。
あなたが永遠の行く末を考え、自分の心の深みを探った上で、「私はこう思います」として自分なりの回答を出すべきものです。
イエス・キリスト自身はこう言っておられます。
「わたしを見た者は、父を見たのである」
(ヨハネ14:9)
すなわち、自分のうちに神がおられ、永遠の神の性質と御心は自分を見ればわかると言っているのです。
その自分で出した答を実践する場。それが人生です。
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聖路加国際病院を設立したルドルフ・トイスラー氏は自分の人生を信仰によって日本に捧げた方です。
彼は
「聖路加病院は病気を治療する場所ではない。神の愛によって患者の苦しみを癒やす場所である」
という理念を遺しました。
日野原重明先生はその思いに込められた言葉をしっかりと握りしめ、聖路加病院の建て直しの際に、病院に酸素吸入器が出る礼拝堂を作り、広い廊下を設計しました。
すぐに批判が飛んできました。
「日野原は贅沢ばかりする。こんな広い廊下が何のためになるのか」
しかし、地下鉄サリン事件の際、その廊下に酸素吸入を含めた施設的体制が整っていたため、600名を超える生死の境をさまよう患者さんを受け入れることが出来ました。
信仰によって生きる時、批判を受ける時があります。
しかし、その信じた道を神はどこかで必ず祝福してくださるのです。
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人としてのキリスト、神としてのキリスト。
両方共100%存在しているイエス・キリストという方はどなたなのだろうと考えつつ、神の導きを求めて参りましょう。
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