今日のみ言葉【No.1618】(2017年10月 5日)「 ありのままの姿からの祈り」
その時、主はさばきづかさを起して、彼らをかすめ奪う者の手から救い出された。
(士師記2:16)
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タモリさんが「自分は大人になったなあ」と思った瞬間は、「ふき」が美味しいと感じた時だったそうです。
子供の時は「あんな苦いものをなぜ大人は食べるのか」と思っていたのに、「あ、こりゃうまい」と感じて食べた時、自分は大人になったんだと誇らしく思ったそうです。
成長に合わせて、好みの味や必要な栄養素は変わります。
それと同じように、神はイスラエルの成長に合わせて関わって下さいました。
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私たちの成長が、小学生→中学生→高校生へと変わっていくように、イスラエルも徐々にその姿を変えていきました。
最初の家族から部族へと増え、そして民族となり国家へと成長していきます。
しかし、ヨシュアが死んだ後のイスラエルは、まだまだ道徳的にも霊的にも未熟な時代を過ごしました。
彼の遺言通りの生き方をせず、
「イスラエルの人々は主の前に悪を行い、もろもろのバアルに仕え、かつてエジプトの地から彼らを導き出された先祖たちの神、主を捨てて、ほかの神々すなわち周囲にある国民の神々に従い、それにひざまずいて、主の怒りをひき起した」
(士師記2:11ー12)
という状況に陥ること度々でした。
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このような「言いつけを守らないイスラエル」を神は見捨てたでしょうか?
いいえ、子供に歯磨きの習慣をつけさせる母親のように、神は彼らにかかわられました。
歯の磨き方を教え、食後や寝る前に歯を磨くことを教え、甘いものを食べ過ぎないようにと警告しても、そうしない子供はいます。
ついには虫歯になり、歯が痛いと泣いて母親に訴えます。
この場合、自己責任という言葉は大人に適用される言葉であって、子供には当てはまりません。
お母さんが子供をあやし、歯医者さんに連れて行き、その後何度も治療に伴い、「今度からはちゃんと歯を磨くのよ」と約束させて見守るように、神は幼稚な時代のイスラエルにかかわられました。
それは士師(しし)、さばきつかさ、と呼ばれるカリスマリーダーの出現でした。
「その時、主はさばきづかさを起して、彼らをかすめ奪う者の手から救い出された」
(士師記2:16)
この聖句での「その時」とは、イスラエルの民が主の前に悪を行ったがゆえに、周囲の外敵から攻撃され、散々な目にあっている時です。
神はまだ到達していない優等生レベルの祈りを聞かれるのではなく、今の自分のありのままの姿からの祈りを聞かれます。
神は未熟な時代のイスラエルの、自己中心で虫が良すぎる願いに対して応えられたのです。
神はあなたが条件を満たしたら愛し、祈りを聞かれる方ではありません。
もしそうなら、毎日聖書を読み、祈り、ディボーションに励み、聖日礼拝を欠かさず、祈祷会で熱心に祈り、愛の施しをし…、とキリがありません。
そうではなく、神はあなたのありのままの今いる位置からの祈りを待っておられるのです。
演技の祈りではなく、正真正銘、魂からの叫びです。
偽りのあなたではなく、本物のあなたとの交わりを神は求めておられます。
神は生きたお方であり、あなたの生きた命との交流を望んでおられるからです。
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ある時、
「先生、私は困った時だけ一生懸命お祈りするんですよ」
と言うクリスチャンの方と会いました。
これがもし牧師候補の神学生の発言なら、
「それはいけませんね。今すぐ私と一緒に祈りましょう」
となりますが、その人の場合は違います。
聞けば、子供の時に洗礼を受け、成長し大人になる途上で様々なことを知り、今は教会とは距離を取っているとのことでした。
様々な試練や理不尽な出来事を通し、世の中は公平には作られていないのだ、と知らされた心の痛手を負いながら、
「でも、神様は良い方だ」
という望みを持っているからこそ、「困った時だけお祈りするクリスチャン」として信仰を保っておられるのです。
神はこの方を愛しておられます。
新たな問題に出会い、解決を求めて祈り、その結果として私と出会ったことが一つの証拠です。
神はその人のありのままの姿からの祈りをお聞きになり、たとえ今優等生的歩みはできなくとも、その人の歩みに合わせて、一歩々々、共に歩んでくださっているのです。
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今のあなたでなければできない祈りを捧げましょう。
そこから真の歩みは始まります。
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