今日のみ言葉【No.1397】(2016年10月27日) 039 「イエスのもとに連れてこられた幼な子」(1)

人々が幼な子らをみもとに連れてきた。
(マルコ10:13)

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私たちの教会では次の日曜日の礼拝後、芋煮会をします。

会費、大人300円、子供100円です。

毎年見ていると、確実に大人よりも子供のほうが多く食べています。

しかしそれを「不公平だ」などと不平を言う人はいません。

それより

「おかわりどう?」

「いっぱい食べて大きくなれよ!」

と子どもたちを受け入れ、歓迎する声だけが聞こえてきます。

子どもは愛され、受け入れられ、歓迎されて育つのが当たり前の標準であるとは、まさしくここは天の御国の出張所だな、と思わされます。

マルコによる福音書第10章13節〜16節では、神の国と幼な子の関係が語られています。

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この個所では3つの「なぜ」を問うことができます。

(1)なぜ人々(親)は子供を連れてきたのか?

我が子は可愛いものです。

どうか祝福された幸せな人生を送ることができますように、と親が思い、イエス様に祈っていただきたいと願うことは自然なことです。

「そのとき、イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。」
(マタイ19:13)

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(2)なぜ弟子たちは彼らをたしなめたのか?

ところが、弟子たちにとってこの子どもたちは「よそ様の子」であって「我が子」ではありません。

また、当時、子どもは数に入れられる存在ではありませんでした。

彼らは子どもたちがやって来ることに意味を見いだせず、むしろ、自分たちの活動を妨げる存在と見えたのかもしれません。

「ちょっと、困るよ!先生はもっと大事なお仕事で忙しいんですから、あなたたちのために割く時間はありません。お疲れなのですから邪魔しないで!あっちへ行って下さい!」

そんな弟子たちの声が聞こえてきそうです。

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(3)なぜイエス様は憤られたのか?

それに対して、イエス様は「憤り」という言葉を使うほど強い感情を表されました。

それほど、弟子たちに対して期待をしていましたし、また、子どもたちがみもとにやってくることは大切なことだったのです。

実はそこに神の国に入る秘訣があったからです。

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イエス様は素直に祝福を求めてやって来る人を決して拒むことはありません。

誰が何と言おうと、神を信頼してストレートに求めてくる者を歓迎して下さるのです。

幼な子のような態度で、神にまっすぐ進む今日として参りましょう。

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