今日のみ言葉【No.1518】(2017年 4月14日) 078 「ペテロ(「主よ、どこへおいでになるのですか」)」(2)

イエスは答えられた、「わたしのために命を捨てると言うのか。よくよくあなたに言っておく。鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」。
(ヨハネ13:38)

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「ブルータス、お前もか」

ウィリアム・シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』の有名なセリフで、親しい者からの裏切りを意味する格言としても有名です。

人の世には裏切りや寝返りが相次いでいることは古今東西変わりありません。

今日の聖句はペテロの裏切りを予告した有名な個所です。

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イエス様とペテロの切迫した会話がヨハネ13章36節〜37節に記されています。

ペテロ「主よ、どこへおいでになるのですか」
イエス「あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。」
ペテロ「主よ、なぜ、今あなたについて行くことができないのですか。」

ここでは「今」という言葉が読み解く一つの鍵になります。

イエス様は「νυν」(ヌン)を使い、ペテロが言ったのは「αρτι」(アルティ)という別の語です。

イエス様の「今」(ヌン)とは「今しばらくの間は」という意味ですが、ペテロはそのことを、「今まさにこの瞬間」(アルティ)ととらえていました。

彼は今この瞬間の気持ちを次のように語っています。

「あなたのためには、命も捨てます」
(ヨハネ13:37)

まさにイエス様に対する愛に満ち、自分を犠牲にすることを厭わない高尚な発言です。

本人もその時は全く嘘偽りのない気持ちだったでしょう。

しかし、彼は自分の本当の姿を知りませんでした。

ですから、イエス様は数時間後に起こる出来事を予告されたのです。

「イエスは答えられた、『わたしのために命を捨てると言うのか。よくよくあなたに言っておく。鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう』。」
(ヨハネ13:38)

ペテロはこの数時間後に、イエス様を知らないと否定します。

「彼は『その人のことは何も知らない』と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。」
(マタイ26:75)

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イエス・キリストは、今も、今しばらくの間のことも、死んだ後のことも、未来永劫にわたって、全てのことをご存知です。

ユダの裏切りも、ペテロが裏切ることも、全てご存知でした。

しかし人間は、わずか数分後のことさえわかりません。まして、自分が死んだ後どうなるのかなどわかるはずもありません。

ペテロは、「自分が数時間後にどうなるのか全くわからない存在なのだ」ということすら分かっていませんでした。

もし彼が、

「いや〜、土壇場になると命惜しさに逃げ出すかもしれませんね。弱さを持っている自分ですから…」

と、自分の裏も表も知っていたら、彼の言葉も行動も違っていたでしょう。

しかしこの時のペテロは、「愛と勇気あふれる行動をずっと続けていくのが自分だ」と疑うことなく信じ込んでいました。

ペテロに対するイエス様の予告は残酷なようにも感じられますが、「あなたは知らなければならないことすら知らないんだよ」ということを教えるためであったのです。

この自分の小ささ、一寸先も知ることができない自分であることを意識した人は、イエス・キリストと出会うことができます。

なぜなら、イエス様はこのようなペテロを愛し、復活の後、ペテロを名指しして会うと御使いに言わしめているからです。

「今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」
(マルコ16:7)

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遠藤周作氏の『沈黙』がマーティン・スコセッシ監督のもとで映画化され、ご覧になった方もおられるでしょう。

この小説が発表された当時から、賛否両論、様々な論評がなされました。

また今回の映画の最後に、死んだロドリゴの掌に十字架が置かれているシーンがありますが、これは原作にはないものです。

私はこれを見て、「スコセッシ監督が原作にないものを自分の思いで追加し、改変したのか」と、何か喉に引っかかるような感じの思いをしていました。

さて、この点に関して、原作者のご長男の遠藤龍之介氏(現フジテレビジョン専務取締役)が、慶応大学の機関紙『三田評論』で以下のように寄稿されています。

「原作に忠実に構成された作品の中で最後のロドリゴがクロスを掌に持って埋葬されるシーンは唯一この映画のオリジナルです。この改変は踏み絵を踏んでも宣教師は最後まで棄教をしなかったということを明確にしたもので小説が暗示したものにきちんとした結論を着けたものですが、父が観ていたら多分大きな拍手を送ったシーンだと思います。」

あのラストシーンはむしろ原作が意図するものに忠実であり、それを更に発展させたものだと肯定しておられます。

実は「沈黙」という題名は編集者の勧めで変更されたもので、遠藤周作氏は生前このことで悩んでいたそうです。

「改題したことは大成功でしたが、父にはこれによって少なからず悩みが生まれてしまったようです。それはこのタイトルにしてしまったために『ロドリゴがどんな苛烈な状況に陥っても神は沈黙を続けた』と読者に誤解を与えてしまったことでした。勿論主題にしたかったのはその逆のことでした。ですから今回のこのアイデアに対して父は『その手があったのか』と何処かで密かに賛同しているような気が致します。」
(出典:『三田評論 平成29年4月号』,慶応義塾大学出版会,P7〜8より)

「なるほど、原作者の意図はそういうことだったのか。間近で見ていたご子息が言うのだから間違いはない」と、私の喉のつかえは下りました。

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私たちが知らないところでたくさんの神の意図が進められています。

それを知らず、疑問を持ち、文句を言ったりしていることがあります。

その私たちを愛し、会おうとしておられる神がおられることを心に留め、今日の歩みを進めて参りましょう。

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