今日のみ言葉【No.1166】(2015年10月28日)

石の心を取り去って、肉の心を与える。
(エゼキエル11:19)

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バブル時代以前の生命保険業界では、売るには「GNP」が欠かせないと言われていました。

国民総生産のGNPではありません。

Giri(義理)とNinjou(人情)とPresent(プレゼント)の3つです。

これでガンガンと売り込みをかけ、契約を取ってきました。

しかしバブル崩壊後のデフレ不況下ではそうもいきません。

その後、

「人の必要を満たす」

ことに焦点を当てたコンサルタント営業で外資系生保が躍進しました。

現在は、

「与えることで友人となり、お役に立つ関係の結果として契約をいただく」

という営業の形になっているそうです。

これこそ本来の、そしてまさに聖書的営業なのではないかと思わされます。

堅固な鎧兜を脱ぎ、人間らしい柔らかい心で相対することができる素晴らしい形です。

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エゼキエル書第11章は奇妙な会話で始まっています。

「家を建てる時は近くはない。この町はなべであり、われわれは肉である」
(エゼキエル11:3)

エルサレムの指導者たちの言葉はこのようなことを意味していました。

「家を建てる時は近くはない」 → 戦争が近い

「この町はなべ」 → なべが火で燃えないように、エルサレムは城壁で守られる。

「われわれは肉」 → 我々は、皮・骨・内臓を取り除いた肉の部分、すなわち良いものである。

つまり、補囚で連れ去られたエゼキエルたちは罪深かったからあんな目に遭ったのであって、我々は良い者だからエルサレムに残ることができ、堅固な城壁はバビロニアの侵略から我々を守る、と考えていたのです。

神はこれをとんだ勘違いだと述べています。

「この町はあなたがたに対してなべとはならず、あなたがたはその肉とはならない。わたしはイスラエルの境であなたがたをさばく。」
(エゼキエル11:11)

この会話をしていたペラテヤはその後死んでしまいます。

「ペラテヤ」という名の意味は「神が逃れさせる」です。

その彼が神の裁きによって滅ぼされたのですから、エルサレムの指導者たちは誰一人として神の裁きから逃れることはできないのだ、ということを意味しています。

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神の御心は、捨てられたと思われたバビロン捕囚の人々から新しい民を創り出すことでした。

「石の心を取り去って、肉の心を与える。」
(エゼキエル11:19)

不従順な固い石の心ではなく、従順な柔らかい肉の心を神は与えるというのです。

これは人間の修行によって到達する状態ではなく、「与える」という言葉が表す通り、神が創造して下さる心です。

神は一瞬にしてこの御業を成すことができますが、そうはなさいません。

補囚となったイスラエルの民が、何十年もかけて異国での苦労と絶望の日々を過ごす中で、少しずつ創り上げていかれたのです。

私たちの「石の心」も同じです。

実際の生活の様々なチャレンジをくぐることを通し、柔らかい「肉の心」の持ち主へと私たちを変えて下さるのです。

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自分の「石の心」を神に差し出す一日でありますように…。

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