今日のみ言葉【No.1559】(2017年 7月 3日) 091 「トマス(見ないで信ずる者は、さいわいである)」(1)

「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」
(ヨハネ20:25)

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雪国の道路では、スリップして道路脇の雪の山に突っ込んでいる車を見かけることがあります。

「お互い様だ」と通りすがりの見ず知らずのドライバーたちが車を止め、脱出を手伝ってくれます。

ありがたいものです。

しかし、毎回必ずそうなるわけではありません。

自分が助けて欲しいのに、1台、2台、と車が通り過ぎ、4台目にも見捨てられると、

「人生こんなもんだ。誰も助けてくれない」

と悲観的思いに満たされます。

弟子のトマスはそのような傾向が強い人だったようです。

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トマスは復活のイエス様が弟子たちに姿を現された時、そこに居合わせませんでした。

たまたまいなかったのでしょう。

しかし、彼はあえて仲間と離れて一人になりたくていたのかもしれません。

先のマグダラのマリヤのように、人は自分が思っていることが事実であることを証明しようとするので、トマスのような悲観主義的な人は自分が作り出した悲しい憂鬱な気分が解消されることを望みません。

むしろそれにどっぷりと浸って、

「人生こんなもんだ。誰も助けてくれない」

と思っていたいのです。

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トマスが帰ってきた時、他の弟子たちはトマスに復活のイエス様と会ったことを話しました。

彼らはこの知らせを喜びを持って彼に伝えました。

当然、「え!本当?やったー!」と、トマスも笑顔で喜ぶ姿を期待していたことでしょう。

しかし、彼の反応は期待していたものとは異なりました。

「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」
(ヨハネ20:25)

トマスはとてもお祭り騒ぎができる気分ではありません。

彼は相当自分を責めていたからです。

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考えてもみてください。トマスはイエス様のために死のうとしたのです。

「するとデドモと呼ばれているトマスが、仲間の弟子たちに言った、『わたしたちも行って、先生と一緒に死のうではないか』」
(ヨハネ11:16)

この時はラザロのよみがえりの時で、彼の言うことは的を外した全くトンチンカンなものでしたが、その心意気が現れています。

トマスは疑い深い人という定評がついていますが、実は彼は純粋な人なのです。

イエス様のために死ぬとまで思いつめていたことからそれがわかります。

ところがその自分がゲッセマネの園で先生を見捨てて逃げていってしまいました。

ちょうどそれは、自分も雪道で難儀した時に助けてもらったのだから、誰か立ち往生していたら絶対車を止めて助けてやるぞと思っていた人が、自分のスケジュール優先で雪に突っ込んだ車のそばを通り過ぎて行ってしまったようなものです。

「自分は何ということをしてしまったのだ」

「私のあの決心とは一体何だったのか」

自分をゆるせない人は安易に方向転換などできないのです。

当然のことながら

「わたしたちは主にお目にかかった」
(ヨハネ20:25)

という他の弟子たちの言葉を素直にその通り受け取ることができません。

トマスと同じタイプの人は「イエス様の十字架を信じたら全ての罪はゆるされますよ」などという言葉は自分をだます甘い言葉としか感じられないのです。

「本当はそんなものではないはずだ」と赦しを拒否し、ひたすら自分を罰し続けます。

このトマスに、イエス様は8日後に会って下さるのです。

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ゆるされるはずのない自分だと思い込んでいる人にイエス様は会ってくださいます。

安易に信じられない自分こそイエス・キリストから特別な愛の眼差しを持って見られています。

その恵みを心に留める一日として参りましょう。

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