今日のみ言葉【No.1165】(2015年10月27日)
「ケルビムの下の回る車の間にはいり、ケルビムの間から炭火をとってあなたの手に満たし、これを町中にまき散らせ」
(エゼキエル10:2)
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教会の和室には冬に火鉢を出します。
炭を起こして手元の暖を取るのですが、その付近の畳には何箇所かの焦げ跡があります。
たまに火鉢の炭から「パチン!」とはじけた火の粉が飛んで、畳の上に残した茶色い跡です。
ある時、私の目の中に飛び込んできた時がありました。
さすがに焦り、眼科に行って、お医者さんから「大丈夫です」とお墨付きをもらうまで安心できませんでした。
あんな極小の火の粉でさえ危険なのですから、それが燃えさかる炭火でしたら本当に大変です。
聖書では当時の民にとって身近だった「炭火」が神の裁きの象徴として表現されています。
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エゼキエルはバビロン捕囚中に預言活動をした人ですから、もう神の裁きを覆すことができない時代に生きていました。
ですから、エゼキエル書では神からの徹底的な刑罰の描写が延々と続きます。
そこではどんなに人間の思いや行動が変わっても、すぐさまそれが現状の変化へとはつながりません。
つまり、
「ごめんなさい。私が悪かったです。」
と謝っても、定められた期間内は相変わらず苦しみが加えられていく、という状況です。
今日の聖句の「炭火」とは神の裁きの象徴です。
これが天使ケルビムから渡され、エルサレムの町中にまき散らされる、すなわち、バビロニア軍の侵略という形でエルサレムが滅亡する幻をエゼキエルは見ました。
もう逃れることはできません。エルサレムは徹底的に破壊され、燃やし尽くされ、滅亡するのです。
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この神の裁きは私たちにも適用されます。
つまり、神の前で御心を行えない私たちは罪人ですから、その罪の代償を支払わなければなりません。
それが上記のような「炭火」であるとしたら、何と恐ろしいことでしょう。
しかし、この裁きを進んで身代わりとなって引き受けた方がいるというのです。
それがイエス・キリストです。
神の御子が愛ゆえに自ら進み出て人間の罪の刑罰を受けて下さった。
燃えさかる炭火をその身に受けて下さった。
それが十字架の意味です。
そのことを信じるだけで人は救われます。
これがキリストの福音です。
旧約の裁きは私にも適用されるのだと認めるなら、新約の救いも同じように適用されます。
自分が罪人であると認めることは、汚れたことでも負けでもありません。
新しい人生を、希望を持って、責任を持って生きていくために必要なことなのです。
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十字架の救いの深さに今一度目を向ける一日として参りましょう。
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