今日のみ言葉【No.1156】(2015年10月16日)
天が開けて、神の幻を見た。
(エゼキエル1:1)
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「ホテルの僕の部屋に強盗が入ったんだよ」
教会で招いたアメリカ人のゴスペルシンガーが、ニコニコしながら友人の宣教師に突然話しかけました。
その宣教師は、彼が笑顔で自分の災難を語るので、驚きと戸惑いを感じながらも、
「何か盗まれたの?」
と聞き返すと、
「いや、何も。代わりに花とメッセージカードを置いていったよ。」
と、また彼が笑顔で言うので、ようやくその宣教師は合点がいきました。
そうです。教会スタッフがあらかじめお部屋に届けていたのです。
思わぬ所に思わぬ愛の配慮があり、励ましが届けられているのを知ることは、大きな力となります。
預言者としてのエゼキエルの力の原点はそこにありました。
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エゼキエルはバビロンに捕囚された祭司の内の一人で、異国の地で預言者活動をしました。
その時の民は、イスラエルの神がバビロンの神に敗れたのだ、という考え方をしていました。
もし自分たちが信じる神の力により頼むとしても、遠いエルサレムの神殿でしか神に出会うことはできないと彼らは考えていました。
しかし、突如としてエゼキエルの面前で幻(ビジョン)が始まり、彼は神の栄光の姿を見ます。
それは言葉に言い表せないくらいの驚きでした。
なぜなら、いないはずの神がこのバビロンに現れ、その力と臨在を表されたからです。
彼はこの時30歳。紀元前593年の出来事です。
その後、エルサレム帰還がかなう紀元前539年まで生きていたとすれば、約50年間に渡り、捕囚の民に回復の希望を語り続ける預言者としてエゼキエルは神の召命に従いました。
その尽きない原動力となったのが、この第1章で表される幻であり、
「いないはずの神」
との出会いだったのです。
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K先生はアメリカの神学校で寮生活をしながら牧師の勉強に励んでいました。
ある時、隣りのアフリカ人学生の部屋から大音声が流れてきました。
神学校の寮ですから礼拝メッセージのようです。
しかしそれは明らかに英語ではなく、アフリカの言語でもなく、非常に聞き慣れた音声だったので、K先生は彼の部屋に行って聞いてみました。
なんと、それは米沢興譲教会の田中牧師のメッセージだったのです!
アフリカから来たその神学生に
「何でこのテープを聞いているんだ?君はこの意味が分かるのか?」
と尋ねると、
「友達からもらったんだ。意味はさっぱりわからないが、聞いてると元気が出てくるんだ。韓国人の牧師だろう?」
と言うのです。
「オー、ノー!それは日本人だ。しかも私の教会の牧師のメッセージテープだ!」
二人は顔を見合わせ、驚きの声を上げました。
「何でこんな遠く離れたアメリカの地で…。何で日本語のわからないこのアフリカ人学生が…。」
K先生は、一人離れたこの地にも神は共にいて下さり、励ましてくださっていることが骨身にしみるほど分かりました。
彼の勉強と神への献身が更に深まったことは言うまでもありません。
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いないはずの所に、神は救いの手を差し伸べ、御自身の存在を表してくださいます。
今日もその神との出会いを大切して参りましょう。
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