今日のみ言葉【No.932】(2014年11月 6日)
主はシオンを築き、その栄光をもって現れ、乏しい者の祈をかえりみ、彼らの願いをかろしめられないからです。
(詩篇102:16-17)
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詩篇第102篇は、次の世代に望みを託す歌です。
この詩篇の記者は、その人生を補囚の地バビロンで閉じることがほぼ確定的となり、もうエルサレムに帰還する望みが無いことを悟ります。
「主はわたしの力を中途でくじき、わたしのよわいを短くされました。」
(詩篇102:23)
1節から11節までを読むと、彼は今にも死にそうな勢いです。
ところが一転、12節の
「しかし主よ、」
(詩篇102:12)
から全く明るい口調に変わります。
「あなたはとこしえにみくらに座し、そのみ名はよろず代に及びます。」
(詩篇102:12)
という神の永遠の存在が、いざ命の限りを眼前にする者にとって、ストンと腑に落ちたからです。
それは、
「乏しい者の祈をかえりみ、彼らの願いをかろしめられない」
(詩篇102:16-17)
という神の存在がクローズアップされた瞬間でした。
私でなくこの神が
「あなたのしもべの子らは安らかに住み、その子孫はあなたの前に堅く立てられるでしょう。」
(詩篇102:16-17)
という未来を実現させて下さるのだ、と彼は信じさせていただき、そのゆえの喜びに浸ることができたのです。
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人は命の終わりが見え始める時、
「自分の人生とは何だったのだろう?」
という疑問を持ちます。
この詩篇の記者のように、異国の全く価値観も人間関係も違うところで不自由な生活を強いられた人にとってはなおさらです。
元気なうちは
「帰るぞ!」
という望みを持つことで、目の前の生活の辛さを何とかしのぐことが出来ました。
しかし、体力は衰え、長い距離を歩くどころか家の中でも躓いて転ぶようになった現在、その望みも見えません。
「ここで生涯を終える私の人生とは一体何だったのだろう?」
「この人たちの中で苦労して生きてきた日々に一体何の意味があるのだろう?」
という考えが湧くのも当然です。
しかしそれは、
「中途半端な人生、未完成の人生は失敗だ」
という思い込みに過ぎないと聖書は語っています。
なぜなら、聖書の中に未完成の人生を送った人たちがたくさんいるからです。
むしろ神があえて未完のままその人生を閉じさせた、というべき登場人物であふれています。
たとえば、広大な土地の約束をいただいたアブラハムは、ほんの僅かの土地を得ただけでその生涯を閉じました。
モーセは約束の地に入るための気力も体力もまだ十分ありましたが、神によって入ることが許されず、カナンの地を目の前にして息を引き取ります。
イエス・キリストは33歳の若さで十字架につけられました。
皆、生きている内に自分の人生の完成を見ないまま、地上の人生を終えさせられたのです。
人生は未完成のまま終えるのが真の完成です。
最後は神に託し、神に仕上げをしていただく
「未完の完成」。
これが人生の醍醐味です。
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神こそが完成者である、という信仰の歩みを今日も続けさせていただきましょう。
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