今日のみ言葉【No.931】(2014年11月 5日)

わたしは直き心をもって、わが家のうちを歩みます。
(詩篇101:2)

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野球でもサッカーでもテニスでも、あらゆるスポーツに誤審はつきものです。

審判も人間である以上、過ちを犯す可能性はゼロとは言えません。

だからと言って審判員の存在を否定したのでは競技そのものが成り立ちません。

基本的に審判は正しいという前提で事を進め、「誤審ではないか?」というグレーゾーンに入った時に協議をするという柔軟な対応が現実に進められている対応です。

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詩篇第101篇でダビデ王は高らかに公義を歌います。

「わたしはいつくしみと公義について歌います。」
(詩篇101:1)

そしてその神の正しさを、家族の中に適用し、更に国全体に広めていく決意を宣言しています。

「わたしは直き心をもって、わが家のうちを歩みます。」
(詩篇101:2)

「わたしは朝ごとに国の悪しき者をことごとく滅ぼし、不義を行う者をことごとく主の都から断ち除きます。」
(詩篇101:8)

そのお陰で、ダビデの治世時代、イスラエルは大いに栄えました。

しかし彼の生涯でバテシバとの姦淫があり、子どもたちも同じような罪を犯し、家族の中に深刻な亀裂が生じました。

そしてそれが発端となり、後に王国が分裂するのです。

「罪の恐ろしさ」

と、どんなに心がけていても審判の誤審のような

「人間の弱さ」

から人は逃れ得ないのです。

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神の恵みはこの弱く罪深い人間に注がれます。

神は正しさ100%の人にご自分のわざを委託されません。

神が選ばれるのは、自分の弱さを知る罪人です。

「彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。」
(マタイ12:20)

パスカルが

「人間は考える葦である」

と言ったように、人は素晴らしい考えを持つことはできますが、葦のように弱い存在です。

葦を夏の簾(すだれ)として作る時、初めから折れているものはもちろん使いませんが、ちょっとでも傷んでいたら、簾の材料からは外されます。

葦は非常に弱いものだからです。

しかし救い主イエスは、

「いためられた葦を折ることがなく」

そのまま用いられるお方です。

また、ランプの芯が、燃え尽きる直前、

「ブスブス、ブスブス」

と弱々しい光で煙を出しつつ最後を迎えるその時でも、

「煙っている燈心を消すこともない。」

そのままで用いられるのがイエス・キリストです。

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ダビデは決して100%完全な人だったのではなく、姦淫、そして殺人という罪を犯した人間です。

そして自分が蒔いた罪の種を子どもたちの中に刈り取らざるを得ず、生き地獄のような苦しみを味わった人でもあります。

神はそのダビデを用いられました。

「主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。」
(詩篇34:18)

「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」
(詩篇51:17)

罪に泣き、自分の弱さにため息しかつけないあなたを神は待っておられ、用いようとされているのです。

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今のありのままのあなたを用いようとされる神に目を向け、主にゆだねる一日として参りましょう。

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