今日のみ言葉【No.623】(2013年 8月 1日)

ダビデはそれを聞いて要害に下って行った。
(サムエル記下5:17)

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ここで旧約時代の歴史の流れを追ってみましょう。

アブラハムに始まる「族長」時代。

モーセに率いられて荒野で生活した「十二部族」時代。

カナンの地に入り、十二部族同士の弱い連携の中でカリスマ指導者が現れ、イスラエルを周囲の原始的国家から守った士師の時代。

組織的軍事力を誇る中央集権国家のペリシテ人に、こてんぱんにやられた時代。

しかし今や、北イスラエルと南ユダはダビデによって統合され、イスラエルも王をいただく中央集権国家として体をなしてきました。

部族 → 民族 → 国家 へと規模が大きくなり、イスラエルは集団として成長しました。

これが敵のペリシテ人にとっては脅威と映ったのです。

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ペリシテはユダの地に進軍し、ダビデを捜しました。

ペリシテ人来襲の知らせを聞き、

「ダビデはそれを聞いて要害に下って行った」

とあります。

これはペリシテを迎え撃つためではなく、神の御告げを受けるためです。

ダビデは神に

「敵をやっつける力を与えてください」

とも

「主よ、私の願いをお聞きください」

とも祈りませんでした。

彼はこう主に問いかけたのです。

「ペリシテびとに向かって上るべきでしょうか。あなたは彼らをわたしの手に渡されるでしょうか」。
(サムエル記下5:19)

彼は神に助けを求めたのではなく、神の御旨を求めたのです。

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さらっと書かれてはありますが、相当の試練をかいくぐらなければ到達できない境地です。

神の御心を求め、それに従うことがベストなのだと頭では分かります。

しかし、いざ実際にその場に立たされると、人間は自分の思いをどうしても通したいものです。

イエス様でさえも、ゲッセマネの園で

「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」
(ルカ22:42)

と祈られた時、

「イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。」
(ルカ22:44)

とあるように、御心に従うとは血の汗を流す体験なのです。

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御心に従うとは、

「自分の思いを神に聞かせる」

という自分が主格の立場から、

「神の思いを自分に聞かせる」

という、神が主格の立場に変えることです。

このためにどうしても通らなければならない体験が一つあります。

それは、

「祈れども祈れども、神は祈りに答えられない」

という

「神の沈黙」

を経験することです。

一切は退けられ、その理由も明かされず、捨てておかれる体験です。

ここに至って、私たちはゲッセマネの園を通らされるのです。

ここに至って、私たちは何日も、何ヶ月も、時には何年も血の汗を流して祈る時を過ごすのです。

それは本当に自分を明け渡す時まで、すなわち、自分の思いに死ぬ時まで続きます。

「みこころが成るようにしてください」

という祈りが、あきらめや気休めの言葉ではなく、本物の言葉として出るその時まで、神は無言で私たちの目の前で見つめていて下るのです。

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主の御心を求める時を持って参りましょう。