今日のみ言葉【No.1673】(2017年12月22日)「 ただの証人として生きる」

わたしたちはこれらの事の証人である。
(使徒5:32)

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「ノルマ」とはロシア語で、第二次大戦後のシベリア抑留者が伝えた語なのだそうです。

なるほど、この語の「ノルマを果たす」「ノルマが課せられた」という使われ方には、強制労働という響きが込められているような感がします。

これとは反対に、どうしても自分の方から働きたくてどうしようもないから働かせていただきたい、という集団がありました。

それが原始教会の姿でした。

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人が集まるのは、そこに魅力があるからです。

聖霊降臨の日に3千人がクリスチャンとなりましたが、その後、かつての反対者たちが初代教会の群れに加わったことが聖書に記されています。

その中には

「あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、いのちの君を殺してしまった」
(使徒3:14-15)

というペテロの説教からわかるように、かつて総督ピラトの裁判で「十字架につけよ」と熱狂的に叫んだ人々がいたのです。

「ピラトは言った、『それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか』。彼らはいっせいに『十字架につけよ』と言った」
(マタイ27:22)

この人たちは考えを変えて、つまり、悔い改めたのです。

それは、自分たちの罪をあのキリストが赦してくださると信じたということです。

なんと虫の良い考えではないでしょうか。

しかしこれが福音というものなのです。

さらに、ユダヤ教の一般信徒ならまだしも、祭司たちがキリストを信じました。

「こうして神の言は、ますますひろまり、エルサレムにおける弟子の数が、非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった」
(使徒6:7)

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初代教会の人々が聖霊の力を得て伝道し、人々が続々と信徒の群れに加わっていった背景には、「報酬」や「給料」という概念はありません。

あったのは、ただ、

「わたしたちはこれらの事の証人である」
(使徒5:32)

ということだけです。

自分の身に起きた神の出来事をありのまま語るだけ。

そこで語られる罪の赦しと平安、永遠の命の希望、神の愛で愛される姿…。

これらのことが人々の目には魅力と映り、「私もそうなりたい」という思いが湧き、信徒の群れに加わっていったのです。

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私たちの教会では毎年大きな会場で講演会を催しますが、他宗教の方で講演会を通してクリスチャンになった方がおられます。

かつて自分たちでも同じ規模の講演会をしていたとおっしゃいます。

そこでは各人に「○○名動員」というノルマが課せられ、時には自腹を切ってチケットを買い、「どうか来て下さい」と友人知人に渡したこともあったそうです。

ところが、タダのチケットでも人には自分の都合がありますから、来てくれるかどうかは確定しません。

当日、講演会の係をしていても、お客様を迎える心はどこへやら、「あの人来てくれたか…」という必死の目が左右する有り様で、それは自分だけではなかったそうです。

しかし、教会の講演会ではそのノルマはありませんから、奉仕される人々は皆あたたかい雰囲気で来場者を迎えます。

その方は、

「あ、これは何か違う!」

と感じ、それがきっかけで教会に足を運ぶようになり、クリスチャンになる決心をしたと語っておられます。

今はその方が人々を暖かく迎える側となっていらっしゃいます。

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罪の赦しの福音を味わい、証し人となること。

恵みの福音が今日もあなたから流れ出る一日となります。

感謝と賛美の人生を送って参りましょう。

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