今日のみ言葉【No.416】(2012年10月 5日)
もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
(ヘブル3:14)
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山形県の天童市は将棋の駒の生産地として有名です。
良質の木と漆を選び、熟練した職人が作り出す駒は芸術作品です。
しかし、最高の駒を使うから将棋に勝つのかというとそうではありません。
その駒を動かす人によって勝ち負けが決まります。
つまり、紙切れに鉛筆で駒の名前を書いただけのものであっても、名人ならば勝ってしまうのです。
誰に自分を任せ、動かしてもらうか。
ここが人生の勝負の勘所です。
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今日の聖句は、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるようにと勧めています。
この3章の前半では、古代イスラエルがモーセに率いられてエジプトを脱出し、荒野で生活した時のことが書かれています。
彼らは残念ながら、奴隷から解放された恵みを忘れ、神に背いてしまったのです。
そこで聖書はこう言います。
「きょう、み声を聞いたなら、
神にそむいた時のように、
あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」
(ヘブル3:15)
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「私はできる」と思って良いのですが、自分の力で出来ていると思ってしまうと、イスラエルの民のように暴走したり横道に逸れたりします。
私が「できる」のは、神様によって救われ、用いられているからだ、というところにとどまり続けること。
これが最初の確信を最後までしっかり持ち続ける、ということです。
「私にはできないが、神様がいらっしゃるからできる」
と信じ続けていく先に本当の「出来る」世界が広がるのです。
「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」
(マルコ10:27)
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私は30年教会生活を続けてきましたが、教会を支えるのは熱心で優秀な人だけではないな、と感じます。
むしろ、信仰のスタート時点では弱く、いつもくじけていて、
「この人、本当に信仰が続くのだろうか?全然燃えてないし、何か試練があれば教会に来なくなるのではないだろうか?」
という人たちによって教会が支えられている現実を見ます。
この人たちは自分の弱さを徹底的に知らされた人たちです。
ただひたすら神にすがらなければ生きてこられなかった体験を持った人たちです。
その試練の過程で、自分に頼ることをあきらめ、神に任せることを実地で学んだ方々です。
いわば、神様という将棋の名人の意のままに用いられる将棋の駒のような人たちです。
このような人たちによって、
「神はなんでもできる」
という世界が広げられていくのです。
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私たちの弱さを通して神の強さが現れます。
救われた者、という最初の確信に徹する歩みをして参りましょう。
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