今日のみ言葉(2011年7月26日)【No.128】
「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与え
られるであろう。」
(マタイ6:33)
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国とはリーダーとなる王とそれに従う民がいて成り立ちます。
神の国を求めるとは、王である神の方針に従うとは何かと考え求めることです。
義とは正しさです。自分が思う正しさではなく、神が何をもって正しいとするかを求めま
す。
神の義はキリストの十字架で表されました。ですから、十字架で自分の罪が赦された、と
悔い改めて生きることがそれに当たります。
つまり、神の国と神の義とを求めるとは、神の御心に従おうとし、罪の赦しを確認しなが
ら、その都度、自分の生き方を神の方向に修正しつつ生きることです。
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そうすれば、
「これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」
と言われています。
「これら」とは何でしょうか?
今日の聖句の前の個所に、
「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらう
な。」
(マタイ6:31)
とありますから、衣食住等の生活全般の事柄です。
私たちは、まず食べること、着るものは何か、雨風をしのぐ安全な環境…、などの問題を
まず解決しようとします。
しかし、聖書に従って生きるとは、衣食住より先に神との関係を正しくすることです。
神の国と神の義とをまず第一にすると、生活全般の問題は神が解決し、備えて下さいます。
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山形市で伝道を始めて最初の数年間、
「あなた、この食事でお米が無くなりました。」
という家内の言葉を何度聞いたかしれません。
妻は、「お米は祈って与えられるもの」と、教会の寮生活の実践で教えられてきたのです。
私はその度毎に「食べられない…」という恐怖のどん底にたたき落とされましたが、その
都度二人で話し合ったことは、
「私たちは何のために生かされているか」
ということでした。
食事をして生きるのは何のためか。その原点を問われる瞬間でした。
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不思議なことに、周囲の人に一言もその状況を訴えないのに、お米はその都度与えられま
した。
その日の内に誰かが届けて下さったり、お米が尽きる3日前に遠方の方から宅急便で届い
たり…。
もちろんお米が数日間届かず、うどんと白菜だけで過ごしたり、「おかしいわねー、今回
は届かないのかしら〜」と言って渋る妻を無理矢理連れてスーパーにお米を買いに行った
りということはありました。
しかしその回数は、与えられた回数に比べて圧倒的に少なかったことだけは覚えています。
無計画でいい加減な生き方を勧めているのではありません。神の国と神の義とを第一とし
て生きる時、生活に必要なものは神が与えて下さるのです。
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あなたにとって、神の国と神の義とは何でしょうか?
一日のスタートにそれに取り組み、神の導きを感じつつ今日一日を過ごしたいものです。
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