今日のみ言葉(2011年7月17日)【No.119】
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」
(マタイ5:3)
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心の豊かな人こそ幸いだと私たちは思いますが、聖書は意外なことを言います。
「こころの貧しい人たちは、さいわい」なのです。しかもこれは感嘆文です。
原文を忠実に訳せば、
「何と幸いなのだろう。こころの貧しい人たちは!」
と、絶対的な幸福を宣言しています。これはどういうことなのでしょうか?
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この聖句の「貧しい」という語は、原語のギリシャ語でプトーコスという言葉が使われて
います。
これは誰かと比べて乏しいというのではなく、本当に何もない貧しさを表します。全く無
いのです。極貧です。
つまり、こころが貧しいとは、自分の心の中にあると思っていた愛や霊性というものが全
く無い状態です。
この人が神の言う幸いで祝福された人なのです。
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自分には僅かでも愛はあると思っていたが、それは実は偽物で本物ではなかった。愛と言
える代物ではなかった、と分かった時は相当のショックを受けます。
祈りを積み重ね、自分も少しは霊的な部分が成長してきたと思っていたら、それは霊性と
言えるものでもなんでもなかった。むしろ自分の肉的な部分だった、と知らされた時は唖
然とするものです。
しかし聖書は語ります。
「心の中に善きものが全く無い、と知らされた人は幸いなのですよ」
なぜなら、あると思っているうちはそれ以上求めないからです。無いと知ったからこそ求
めます。
そして、偽物をつかまされていたからこそ本物を求めようとするのです。
自分の内には愛や霊的な資質が全く無い、と知った人が真剣に神に求めます。そして神の
国の本物の愛や霊性がその人のものとして与えられるのです。
だから、
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」
なのです。
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ナースの祈り
主よ あなたの祝福のうちに今日の一日を始めます
わたしを待つ病む人びとに
看護の奉仕を届けることができますように
病む人の声を聴き取る心と
見えるものの奥を見る力をお与えください
看護の技を磨く知識と
謙虚に看護する態度を
身につけることができますように
先入観を持って患者を見ることなく
ひとりひとりに敬いをこめて
触れることができますように
いかなる恐れや苦しみにも向き合うことができ
思いやりとやさしさを ことばと行いのうちに
宿すことができますよう 照らしてください
新たに来るどの日にも 喜びと驚きを
見出すことができますように
主よ わたしのこの両手を通して
あなたの癒しの光が 輝きますように
アーメン
(日本カトリック看護協会サイトより抜粋)
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こころの貧しさを見出していきましょう。
そのゆえに神は惜しみなく天国の恵みを与えて下さいます。
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