今日のみ言葉【No.1876】(2018年11月 8日)「 教会(3)」

全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。
(マルコ16:15)

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神に呼び集められた人々がなすべき第2番目の使命は宣教です。

「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」
(マルコ16:15)

では洗礼を受けたらすぐに家庭も仕事も放り投げて、街頭に立ち、「イエスを信ぜよ!」と選挙の候補者のように声を張り上げて説教しなければならないのでしょうか?

そうしたい人もいらっしゃるでしょうが、大部分の人にとってそれは無理です。

そして、自分の賜物と違うことをやらされれば、祝福に満ちるはずのクリスチャン生活は苦しみとなります。

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さて、マタイによる福音書の最終章の最後に大宣教命令があるではないかという人もいらっしゃるでしょう。

「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」
(マタイ28:19-20)

この箇所を正しく理解するためには、語られた状況を読み取らなければなりません。

ここではイエス様と、ユダを除く11人の弟子たちだけがいます。

つまり、イエス様がこのような命令を下されたのは、たった11人の弟子たちに対してだということ。

群衆や一般信徒に対してではありません。

あくまでもご自分が選んだ少数の「弟子」と言われる人たちに対してだけです。

そしてさらに、ここでの中心は「弟子とせよ」ということです。

ギリシャ語文法の細かい点になりますが、動詞はこの1個だけで、「行って」「バプテスマを施し」「教えよ」は分詞です。

ですから、

「行くことによって、洗礼を授けることによって、教えることによって、すべての人々をキリストの弟子としなさい」

というのがより正確な意味です。

こうなると、宣教というより弟子養成という意味合いが濃くなります。

イエス様と同じ愛の心を持った人となること。

その愛を生活の中で実践する人。

それがキリストの弟子です。

教会に集うクリスチャンの使命とは、それぞれの日常生活の中で「小さなキリスト」として愛の行いを為し、そのことを通して

「神様とは、キリスト様とはこういうお方なのか」

と周りの人々がキリストと出会うように生きることです。

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非の打ち所のない立派な生活だけでなく、日常のありふれた出来事の中で生きた信仰が神を伝えるお話です。

ご主人が長年の勤めを終え、お子さんも独立したので、老年に入ったご夫婦が犬をペットとして飼いました。

クリスチャンの奥様は犬にも感謝のお祈りをして食べさせます。

ドッグフードを前に置き、ワンちゃんの両前足を手に持ちます。

そして、「感謝、感謝」と言いながら、左足を2回、右足を2回上下に振って、「アーメン」と言ったら食べて良いのです。

犬の方でも

「こうやってお祈りしてからでないと食べてはいけないのだ」

と学習したようです。

ある時ご主人が、

「今日は俺が食べさすよ」

と言って、ドッグフードのお皿を置き、

「はい、握手」

と犬に言い、その足を上下に振りました。

ご主人にはお祈りでなく握手と見えたのでしょう。

ところが、犬は食べようとしません。

「あれ、今日は食欲ないんじゃないか」

とご主人が不思議そうに言うそばで、ワンちゃんの目は奥様の方を必死に見ています。

食べたいのに食べられないのです。

握手ではダメなのです。お祈りしなければ食べられないのです。

奥様はすぐに犬のもとに行き、いつものように

「感謝、感謝。アーメン」

と食前の感謝のお祈りをすると、犬は猛然と食べ始めました。

後でご主人が

「犬もお祈りがわかるんだなあ」

と言っておられたそうです。

キリストを信じる弟子として生きる時、このようなほんの小さな出来事を通し、福音が宣べ伝えられていくのです。

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神を愛する愛をもって今日一日の日常を送って参りましょう。

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