今日のみ言葉【No.1853】(2018年10月 6日)「 神の祝福を受けるための訓練『頭を下げる』」
「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」
(ヘブル12:5-6)
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銀行員の方にお辞儀の仕方を習ったことがあります。
「ズボンの縫い目に手を置きます。意識するのは中指です」
「首を曲げない。腰から曲げる」
微に入り細に入り教えてもらい、その通りにやると、だんだん形がきれいに整ってきました。
そうすると、心の中まで誠実な銀行員になったような気がします。
これが形から入ることの効用です。
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初めはさほど思っていなかったことでも、型を学んでその通りに動くと、心が外側の体の動きに合わせて変化します。
心理学ではこれを「情動の末梢起源説(ジェームズ・ランゲ説)」と言い、
「人は悲しいから涙を流すのではない。涙を流すから悲しくなるのだ」
とか
「人間は幸せだから歌うのではない。歌うから幸せになるのだ」
というフレーズで一般に知られています。
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もちろん、頭を下げ続けるように体だけを動かせば、心は悔い改めるようになるかというと、そういうことばかりではありません。
時に心は頑強に抵抗します。
ある時、お預かりした少年が問題を起こしました。
早速お父さんが謝罪に来られ、息子に頭を下げさせようとしました。
息子は
「大変申し訳ありませんでした」
と口から言葉は出るのですが、手をついて頭を下げるという動作ができずに固まったままです。
これには当の本人もびっくりしたらしく、思わず
「アレ!あれ?」
と言葉が漏れてきました。
あわてたお父さんが息子の頭を上からギューッと押さえつけたのですが、それでも下がりません!
自分は悪いと思っていない本音が丸見えで、表面だけ取り繕うとするたくらみがこれも丸見えとなり、こちらとしては苦笑する他ありませんでした。
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私たちは訓練を授ける神の意図を知らなければなりません。
聖書にこうあります。
「肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである」
(ヘブル12:10)
神は「そのきよさにあずからせるために」、すなわち、私たちを聖なる者とするために訓練を与えられていると言うのです。
自分は悪くないのに、なぜあちらでなく私のほうが頭を下げなければならないのか、と憤慨せざるを得ない時が人生にはあります。
もちろん自分の正しさを主張して良いのです。
しかし、人生どこかで、自分がしたことでなくてもお詫びをせねばならない場面には出会うものです。
その時、自分は悪くなくても謝って下さったキリストとの出会いが意識されるのです。
十字架はこのためにあったのか、と心と体の両方から実感できるのがその時です。
神のきよさにあずからせていただき、キリストと似た者となるとは、このような訓練を通してなのです。
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この神の御心が了解できれば、後は、出来ない自分を出来るようにする工夫だけです。
それは柔軟体操のようなものです。
固い体をいきなりギューッと押し付けたら体を痛めてしまいます。
「できるかな、できないかな?ここまでなら大丈夫だな」
というところで一旦止めて、そこから先はゆっさゆっさと揺さぶります。
そして、
「イタタタ、でも、もう少し」
と限界を少しずつ伸ばしていくのです。
そうやって、私たちは神からの祝福をいただき、さらに聖なる者へと成長させていただけるのです。
「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」
(ヘブル12:11)
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頭を下げられない私のためにキリストが代わりに神の御前で頭を下げられ、罪の全てを引き受けて十字架について下さいました。
キリストは復活され、今、私たちと共におられ、罪の赦しは本当であることを証明して下さいました。
その方とくびきを共にし、聖なる者となる訓練を受けつつ生きるのがクリスチャンの人生です。
この愛と祝福の人生を歩み続ける今日として参りましょう。
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