今日のみ言葉【No.1009】(2015年 3月20日)
貧しい者と、しえたげる者とは共に世におる、主は彼ら両者の目に光を与えられる。
(箴言29:13)
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箴言第29章の1節には
「しばしばしかられても、なおかたくなな者は、たちまち打ち敗られて助かることはない。」
と、経験者の忠告を無視する人の哀れな末路が描かれているように見えます。
新改訳聖書でも、
「責められても、なお、うなじのこわい者は、たちまち滅ぼされて、いやされることはない。」
とあります。
「うなじのこわい」とは首筋がかたいことです。これは強情な山羊が下地になっています。
山羊に首輪をつけ、飼い主が右に行こうと引っ張っても、山羊にその気がないと決して行こうとしません。
その首の力の強いこと強いこと!これが「うなじのこわい」ということです。
聖書では羊が従順の代表、山羊は不従順の代表です。
世の終わりに救われる者と救われない者の二つに分かれるお話に、この羊と山羊が登場します。
「そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、
羊を右に、やぎを左におくであろう。」
(マタイ25:32-33)
さて、新共同訳聖書では1節を
「懲らしめられることが多いと人は頑固になる。彼は突然打ち砕かれ、もう癒すことはできない。」
と、一転して懲らしめる側の方に問題があるので人がかたくなになるのだ、と訳されています。
こうなると、今まで「かたくなな者」と悪者扱いされていた人が、実は虐待を受けていた被害者だったのだ、ということになります。
本当に聖書とは奥が深い書です。
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「貧しい者と、しえたげる者とは共に世におる」
という今日の聖句の通りの世の中なのです。
しかし神は
「彼ら両者の目に光を与えられる」
というのです。
目に光を与えられるということは、見えるようになるという祝福です。
これは和解を意味します。
お互い、自分のことしか見えなければ、争いは続き、両者が「自分は被害者だ」と言って譲りません。
しかし、神が与えた目の光は、自分だけでなく相手が見える光です。
「貧しい者と、しえたげる者とは共に世におる」という現実はあります。
しかしそこに和解がもたらされる祝福を神は用意しておられるのです。
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和解の使者として来られたのがイエス・キリストです。
「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。」
(第2コリント5:18)
それは、喧嘩両成敗という形での決着の付け方ではなく、
「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。」
(第2コリント5:21)
と、キリストを一方的に悪者とし、罪を負わせ、全人類の罪の刑罰を受けさせたのです。
イエス・キリストは仕方なく、義務として十字架を負ったのではありません。
自ら進んで、愛のゆえに、ご自分の責任ある選択として十字架を負い、神の怒りを受けられました。
このことが自分のためであった、と信じるだけで、私たちは罪の赦しを受け、永遠の命を持つ者となります。
このような大きな祝福の中で、和解の方向へ目が向けられていくのです。
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あなたに与えられている目の光に感謝し、神が導いて下さる方向に目を向ける一日として参りましょう。
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