今日のみ言葉【No.1822】(2018年 8月29日)「 神の祝福を受けるための訓練『町内会」
愛は寛容であり、…、不作法をしない、
(第1コリント13:4-5)
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クリスチャンはこの世と妥協しませんが、この世との関わりを積極的に持つべきです。
なぜなら、神はこの世を愛され、その愛をあなたを通してこの世に撒き散らそうとしておられるからです。
ですから、時にあなたを「えっ!」と驚くようなところへ飛び込ませます。
大丈夫です。そこであなたが神の祝福の基となるよう、人々を愛せばよいのです。
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さて、聖書の中で愛の章として有名なコリント人への第1の手紙第13章では
「愛は寛容であり、…、不作法をしない」
(第1コリント13:4-5)
と愛を定義しています。
「不作法をしない」というギリシャ語は「形あるものを壊さない」という意味です。
つまり愛とは、相手が大事にしているものをこちらも大切にしてさし上げるということです。
こちら側から見れば相手のしていることに意味はないように見えますが、その人が大事に守ってきたことであれば、こちら側の価値観でそれを否定することなく、同じように大事にしてあげるということです。
ですから、
「そういう生き方ではダメです。もっと愛にあふれたキリスト教的生き方をしなさい」
と相手を直すことはキリストの愛とは正反対のことなのです。
不作法をしないとはマナー違反にならないようにとビクビクしながら生きることではありません。
相手の生き方の中に飛び込み、その人にお仕えし、大事になさっていることを共に守ってさし上げること。
そこに神の愛と御心が見えてくるのです。
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私はそのことを町内会でのお付き合いの中で体験しました。
教会の寮があった町内では、代々伝わる神社のお祭りがあります。
私が寮長をしていた年、
「今年のお祭りはあなたのところが当番にあたっているから、ひとつご協力をお願いします」
と役員の方から言われ、答えに窮しました。
「キリスト教会のスタッフたちが神社のお祭りを手伝っていいのだろうか?それは偶像礼拝になるのではないか?」
寮のミーティングで話し合い、「させていただきましょう」ということになりました。
聖書的根拠は第1コリント13:5、マタイ25:40、マルコ10:45。
つまり、キリストが仕えられたように私たちも人にお仕えし、最も小さい者を愛することがキリストを愛することだから、町内で大事にしている形を崩さないでお手伝いさせていだきましょう、ということです。
さて、決心して町内会長さんのお宅に伺ってみると、
「まずお寺に行って、そこの住職さんから話を聞いてくれ」
と言われ、「?」という気分。
神社のお祭りなのになぜお寺なのだろう?
言われた通りに行ってみると、
「ああ、お待ちしてました。本堂の下にのぼりの旗や道具を保管していますから、それを持って行って下さい」
と指示され、だんだん事情が飲み込めてきました。
「なるほど、町内の方々はこうやって相互に助け合いをしているということだな」
宗教上の教義の違いという建前で左右されるのではなく、本音の愛で支え合い、生活を支障なく送る人々の知恵というものが見えてきました。
「なるほど、この生きた命にお仕えすればいいのだ」
迷いは吹っ切れました。
しかしあれは世にも珍しい風景でした。
キリスト教の青年たちが、お寺に保管されているお祭り道具をエンヤラヤと担ぎ、神社でのぼりの旗を立てることに勤しんでいたのですから!
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神はあなたを思いもよらない場所に飛び込ませることがあるでしょう。
しかし恐れるには及びません。
神はあなたに「ここにいる人々を愛せ」と命じておられるのです。
そこでしっかりとキリストにつながり、形を壊さない愛で人に接する時、生きた命の世界が広がっていくのです。
今日もその神の導きの世界の中を歩んで参りましょう。
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