今日のみ言葉【No.1782】(2018年 6月21日)「 キリスト教の神(2)」
「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」
(ヨハネ4:24)
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まさにサッカーは何が起こるかわかりません。
ワールドカップロシア大会初戦の相手国コロンビアの選手が、開始わずか3分でハンドの反則を犯し、一発退場。
「必ず勝つ」というスピリットで統一された日本チームはこの数的優位を生かし、「絶対負ける」という下馬評を覆して勝利を得ました。
「神は霊である」という「霊」は英語ではこのスピリット(spirit)です。
日本人が聖書の神を正しく理解するためには、全くイメージを新たにした言葉を使うと良いのではないでしょうか。
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キリスト教の神は神ご自身の自己紹介、つまり「啓示」によってその正しい姿が人に知らされます。
ヨハネによる福音書第4章24節では
「神は霊である」
と示されています。
ただ、日本人が「霊」という語を聞いて連想するのは、「幽霊」とか「守護霊」とかの何やら得体の知れないおぞましいイメージです。
これを「スピリット」という語で置き換えると、
「そうか、神はスピリチュアルな存在なのか」
とか
「聖書の神と同じスピリットを共有すれば、そりゃあ聖なる性質も身につくだろうよ」
と、古い言葉のイメージの縛りから解放され、新しい別の視点から神を見ることができます。
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神が霊であるということは、物質的存在の形態を取らないということです。
日常的感覚から言えば、「神様は目には見えない御方だ」ということです。
空気や音も、電波も目には見えませんが、霊はそれらを超えた超自然的存在です。
そして何よりも、霊は人格を持っています。
ですから、神の方から自発的にあなたに関わろうとされます。
この神を知ろうとするには、知性だけでは限界があります。
霊なる神は霊によって知られるからです。
そのためにも、私たちは静まって祈りの時を持つ必要があります。
その霊的時間を持つことが、さらにあなたの霊性を育て、神理解を深めます。
「静まって、わたしこそ神であることを知れ」
(詩篇46:10)
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「神様って、こういう形で私と交流したいのではないかな〜」
と私が思った一例をご紹介したいと思います。
実家のビーグル犬のブラッシングをすることが私の仕事でした。
フサフサとした冬毛は冬の寒さから犬を守ってくれますが、暖かくなったら必要が無くなり、初夏を前にして徐々に抜けていきます。
早く爽やかにしてやろうとブラシを構えて待つ私なのですが、犬はそんなことより遊びたいようです。
動き回られては仕事になりませんので、しばらく追いかけっこをしてお付き合いをします。
しかし、ある時点で
「はい、ここまで」
とお遊びの時間を終了し、ビーグル犬を捕まえて作業にとりかかります。
最初は何をされるのかと嫌がるのですが、そのうちにブラッシングの気持ちよさを感じ出し、おとなしくなります。
次回からは私を見ると、自分の方から寝そべり
「早くやれ」
とばかりに私の方を見て待っています。
私は
「わかったよ」
と言って、丁寧に、隅から隅までブラッシングを施します。
私にとって祈りの時間、神との霊的交わりの時間とはこのようなものなのではないかと思っています。
「静まって、わたしこそ神であることを知れ」
(詩篇46:10)
日常のあらゆる活動を一時的に休止し、ただ神の御前にたたずみ、何もせず、受身的に神の御言葉を待ち、静聴すること。
この霊的時間が神を知る最大の時間なのではないでしょうか。
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祈りという霊的交わりの時を持つ一日として参りましょう。
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