今日のみ言葉【No.1748】(2018年 5月10日)「 放蕩息子のたとえ話(6)」

死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった
(ルカ15:32)

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うつ病の方のご相談で、

「1ヶ月の休暇をもらったが、どう過ごしてよいかわからない」

というものがあります。

健康な人はすぐこう反応します。

「あら、良かったじゃない。温泉にでも行ったら?旅行したら?映画でも見たら?」

うつ病の方にとってそれらは重労働なので、考えただけでも頭が重くなります。

むしろ考えていることは

「復帰後すぐ働けるだろうか?どのようにすればこの休みを最大限に生かせるだろうか?」

というものですから、休みのはずなのに神経はフル回転して逆に疲れてしまいます。

そこで私はこう伝えます。

「毎日をムダに過ごして下さい。天気が良いのにウダウダ家で寝転び、ああ昼になった、ああ3時を過ぎた、もう夕方だ、暗くなってきた、今日も何もせず後は寝るだけだ…、という生活があなたにとって一番良いのです」

うつ病の人に休養が必要だとはこういうことです。

自分が考えていることとは全く別のことが正解であることはよくあります。

神と人間との関係でも同じことが言えます。

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私たち人間は神様のことがわかりません。

そこで神ご自身が「私はこのような神である」と自己紹介してくださったのがルカ15章の放蕩息子のたとえ話です。

そこに描かれている父の姿こそが神の姿であり、人間の哲学的考察から生まれた「神がいるならこういう方だろう」という想像とは違います。

そこに描かれている神の姿は、

(1)神は天の父であること

(2)罪を犯した人間を自分の方から犠牲を払って赦す方であること

です。

そして聖書は、人間である私たちが神から見たら「失われた存在」であることを教えています。

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放蕩息子のたとえ話で父親は

「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」
(ルカ15:32)

と言っています。

神から離れ、神の存在を考えに入れないでも、今現在の数十億の地球人類は生きています。

しかしそれは生きているようで、本当の意味では生きていないのだと聖書は語るのです。

例えて言えば、新幹線の車両が普通の道路に降りたようなものです。

なんとか走ることはできるかもしれませんが、ノロノロとでしょうし、周囲の車や歩行者にかなりの迷惑をかけることでしょう。

レールの上に乗っていれば時速200キロくらいは軽々と出せるのに、レールから外れていれば本来の力を出せません。

人間が神の前では死んでいるとはこういうことなのです。

常に電源コードから電気が来ているのとは違い、そこから切れ、充電池のみで動いているスマホのようなものですから、最初は意識しませんが、一日の終わり頃にはバッテリーの減りが気になってしょうがありません。

神とつながること、それが

「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」
(ルカ15:32)

ということであり、そこにおいて人は心の安らぎを覚え、明日への活力を得られるのです。

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神との関係を結び直す今日として参りましょう。

それはあなたのたった一言、「神様…」という祈りで始まります。

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