今日のみ言葉【No.1745】(2018年 5月 7日)「 放蕩息子のたとえ話(5)」
それから祝宴がはじまった。
(ルカ15:24)
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サッカー女子日本代表「なでしこジャパン」の元監督佐々木則夫さんは山形県尾花沢市出身です。
いつも挨拶で「おばんです」と山形弁を使い、日本各地の講演先でも、つかみの第一声は「おばんです」。
聴衆は「えっ、今の何?」となって、佐々木ワールドにすぐさま入ってしまうのだそうです。
帰るべき故郷(ふるさと)を持っている人は幸いです。
ルカ福音書の放蕩息子は罪の生活の結果、何もかも失い、恥を忍んで帰って来ました。
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放蕩息子は自分の限界を悟り、父のもとに帰ってこう言いました。
「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません」
(ルカ15:21)
これに対して父は
「このバカ息子がぁ!!あれだけの財産を分けてやったのに全部使い果たして一文無しとは何事だ!しもべの下のしもべとして一から出直しなさい!」
と大声で怒鳴った…、とは書かれてありません。
実はこの放蕩息子のストーリーの中で、父が弟息子に諭したとか話をしたとかという記述は一切出てきません。
父は兄息子に対しては言葉を使って言っていますが、弟息子に対しては行動でその思いを表現しています。
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父は弟息子には何も言わず、しもべたちにこう言いつけました。
「さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい」
(ルカ15:22)
これは愛する息子として、つまり、神の子としての資格を回復するということです。
続けて父はしもべたちにこう命じます。
「また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか」
(ルカ15:23)
一見、ローストビーフかすき焼きかなどと料理のことしか頭に浮かびませんが、これは父が子の罪の贖いをすることを意味します。
「その犯した罪のために雄の全き子牛を罪祭として主にささげなければならない」
(レビ4:3)
すなわち、神ご自身が人間の罪の贖いをなし、悔い改めて神に立ち返る人間の罪を無条件にゆるして下さるということなのです。
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神と人間との関係は、人間が条件を満たせば神に受け入れられるというものではありません。
放蕩息子のたとえ話は、無条件だ、と言っているのです。
なぜなら、本来人間が罪の償いとして支払うべきものを、神がご自分のひとり子イエス・キリストを犠牲にして支払ってくださったからです。
キリストを信じれば救われるとは、この放蕩息子のたとえ話のように神と自分との関係が正しくされることです。
その間に、垣根も障害物もなく、何の気がねも怒られる恐れもなく近づけ、話ができる間柄がすでに用意されているのです。
人間側に要求されているのは、そうなっているのだと信じて、弟息子のように神に帰ってくることです。
その瞬間から
「それから祝宴がはじまった」
(ルカ15:24)
という人生が展開され始めます。
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神が催される祝宴にいる今日として参りましょう。
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