今日のみ言葉【No.1660】(2017年12月 7日)「 主に交われば」
こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。
(ローマ8:1)
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「朱に交われば赤くなる」
ということわざのキリスト教バージョンは
「主に交わればきよくなる」
です。
主イエスを信じる者の罪がゆるされるからです。
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イエス・キリストは罪からの救い主です。
その恵みにあずかったパウロはこう断言しています。
「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」
(ローマ8:1)
「こういうわけで」とはこの箇所の直前の部分を指しています。
「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」
(ローマ7:24)
パウロは救いのない罪人の自分を嘆いています。
ところが直後に
「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」
(ローマ7:25)
と一転して喜びにあふれています。
何の説明もありません。
つまり、理論理屈で説明できることではなく、信じた者のみが得られる体験なのです。
キリスト教とは、わかったから信じるのではなく、信じたからわかるものなのです。
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Aさんは友人のクリスチャンの影響で祈ってみることにしました。
ちょうど大きな病気をした直後だったので、
「苦しい時の神頼みなのよ。でも、何かにすがって安心できればそれでいい」
というお気持ちだったそうです。
夜寝る前に
「神様、今日も一日生きることができました。ありがとうございます」
と手を合わせて祈ると、いつの間にか眠っている自分に気がつきました。
そのうち、祈らないで寝ている日があることに気がつきました。
やはり苦しい時だけの神頼みで終わるのでしょうか?
Aさんは
「あ、体が良くなって元気になったから忘れたんだ」
と考え、平安を回復した笑顔で
「神様、元気にしてくださってありがとうございます」
と別の祈りを始めている日々です。
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祈ってみた人だけがわかる真理。
それが主イエス・キリストとの交わりで与えられるものなのです。
理論理屈はその場に置いて、まず祈ってみる。
そこから新しい世界が開かれていきます。
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