今日のみ言葉【No.1523】(2017年 5月 8日) 080 「ピリポ(「わたしたちに父を示して下さい」)」(1)
ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。
(ヨハネ14:8)
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私は2度交通事故に遭っていますが、最初の事故で車は廃車。
すぐに別のが必要だったので車屋さんの「コレいいですよ!」と言われるままに決めたのが、
・MOMOステアリング(通称「モモステ」)
・ハンドリング by ロータス
・レカロ パケットシート
というクルマ好きの方には「垂涎の的」(すいぜんのまと)の峠道を攻める走りの車でした。
しかし私はいまだにその良さがわかりません。
ハンドルは小さいし、シートは硬いし、燃費は良くないし…。
2度目の事故でそれも廃車。
次は日本を代表する大衆車のカローラ。
これはアクセルを踏むと進み、ハンドルを回すと曲がり、ブレーキを踏むと止まってくれるので、何の問題も感じません。
今思えば、バブル時代の申し子と呼ばれるような豪華な車に乗っていながら、その魅力も良さも全くわからないでいたのです。
イエス様のそばにいながら、神様のことがわからなかった弟子のピリポと同じです。
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ピリポは
「しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」
(ヨハネ14:7)
というイエス様の言葉を聞いて驚きます。
彼はまだ自分は神様のことがわからないと感じていたからです。
そして、トマスとイエス様との会話に突然割って入ったかのようにして
「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」
(ヨハネ14:8)
と願っています。
これは、神を見たいという願いの現れです。
私たちは、目で見たり、手で触れたりすることのできる神を求めています。
つまり、五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)や思考力によって、私たちのわかる方法で神を知ろうとするのです。
しかし、神は霊(人格を持った超自然的存在)ですから、感覚でもってとらえることのできないお方です。
また、人間の脳で理解でき、とらえられる神ならば有限ということですから、それでは無限の神ということにはなりません。
本来なら神様という方は理解できない御方なのです。
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その神が人間の姿をとられ、人間にわかるように現れて下さったのが、イエス・キリストです。
これを神学的用語で「受肉者キリスト」と言います。
肉体を持った完全な人間であり、と同時に完全な神性を持っておられる方という意味です。
もし今、イエス・キリストが目の前に現れたら、私たちは何の疑いもなく人として接するでしょう。
何の違和感もありません。普通の人と同じです。
しかし、交流が始まり、つきあいが深くなりだすと、だんだん「この人は随分きよい人だなあ」と、その性質の聖なる部分に気づきだします。
キリストの愛に触れ、人格的部分がわかりだします。
そして、「神様って、きっとこんな方なんだろうなあ」と思うようになります。
理解できるはずがない神という存在が理解できるようになる。
これを神の奇跡と言わずして何と言うでしょうか!
神であるキリストが人となったのはそのためだったのです。
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ピリポは今一歩の所にいました。
私たちの場合、踏み出すべきその一歩とは、イエス・キリストの言葉と行いを記した聖書を「キリストは神であったのだ」と信じて読んでみることです。
そこに踏み出して行く時、人間の理解を超えた神の理解の世界が広がっています。
まず一歩。それが私たちの人生を変えていきます。
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