今日のみ言葉【No.1466】(2017年 2月 3日) 063 「イエスの弟子になったピリポ、ナタナエル」(2)

ナタナエルは彼に言った、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」。ピリポは彼に言った、「きて見なさい」。
(ヨハネ1:46)

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オーストラリアに行った時、バーベキューパーティーに招かれました。

出されたものは好き嫌いなく食べようと決心(!)し、網の上でジュージュー音を立てて焼かれるオージー・ビーフを食べ、野菜もおいしくいただきましたが、問題はソーセージです。

私は子供の頃食べさせられた大嫌いなあの味を思い出し、

「とても食べられない」

と尻込みしました。

しかし、ホストファミリーが

「おいしいから食べてみて」

と満面の笑顔ですすめてくるのに、それを食べないのはお客様として失礼です。

意を決して、震えながら口にすると、

「パキッ!」

と、まるでキュウリかと思うかのようにスパンと切れて、口の中に広がる熱い肉汁の美味しさ!

「んん?何だこれ?!」

後で分かりましたが、子供の頃食べていたのは魚肉ソーセージで、ここで食べているのは本物のソーセージだったのです。

私の持っていた誤った先入観によって、この世の美食の機会を逸するところでした!

偏見や先入観を一掃して神の祝福を得させるものは、行動です。

ピリポはナタナエルにそれを勧めました。

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イエス様の言葉にすぐ反応したピリポと反対に、抵抗したのがナタナエルでした。

彼は人一倍イスラエルの救いを待ち望んでいたはずですが、イエス様について行くのに一つの妨げがありました。

それは「偏見」でした。

「ナザレから、なんのよいものが出ようか」
(ヨハネ1:46)

人は、「ああ、あれはわかっている」と思うと、何一つ新しいものが心に入ってきません。

この妨げが取りのけられたポイントは、

「きて見なさい」
(ヨハネ1:46)

という、ピリポの行動を促す言葉でした。

私たちも、イエス・キリストと人格的に出会うためには、わかってから行動するのではなく、今はわからなくても、理解するために行動を起こすということが必要なのではないでしょうか。

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Sさんは宗教に寛容な方で、しかし特定のものに染まることなく、「こんなものか」と中立の立場を取っておられました。

ある時、教会主催の講演会に誘われ、「たまにはキリスト教もいいか」という程度の気持ちで行ってみました。

ところが、牧師の出番の前のゴスペルシンガーの歌声を聞いた時、雷に打たれたようなショックを受けました。

感情のこもった、霊的な歌声に魅了されてしまったのです。

「これは何だろう?」

音楽に造詣が深く、人より耳が肥えているはずと自負していたSさんならではの驚きでした。

それ以来、彼の教会通いが始まりました。

講演会の牧師の話も、カセットテープを購入し、腰を据えて聞き、教会の礼拝にも出席し、キリストの救いに耳を傾けるようになりました。

そして、これこそ本物と確信したS兄は、洗礼を受け、クリスチャンとして人生を歩み出されたのです。

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「きて見なさい」という神の招きに、まず一歩踏み出す行動を起こす今日として参りましょう。

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