今日のみ言葉【No.1461】(2017年 1月28日) 061 「イエスと出会ったバプテスマのヨハネ」(3)

わたしはこの人を知らなかった。
(ヨハネ1:33)

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私の子供の頃、「イエス・キリスト」という呼び名からから連想されるイメージは暗いものでした。

小学生の時、校門の前で、あるキリスト教団体の人たちから渡された小冊子に、地獄の火で罪人が焼かれる絵や、天国の花園の絵が描かれてあるのを見て、子どもながら「うさんくさい」と思いました。

また、町中の塀に「死後さばきにあう」等と書かれた黒い看板には不気味さを覚えました。

これは全くの個人的感想で、その活動を批判するつもりは全くありませんし、今ではその熱心さに感銘さえ覚えます。

私が子どもの時にはキリストと結びつく接点がなかったのです。

それは罪意識と罪のゆるしということです。

それがあって初めて、自分の人生にイエス・キリストが入ってくる準備が整えられます。

それまでは、名前は知っていても、それがどういう存在かは知らないでいるのです。

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バプテスマのヨハネは、預言者として人々に告げ知らせてきた救い主ご本人が、自分の目の前に立たれたことがわかりました。

神から

「ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである」
(ヨハネ1:33)

と告げられていたからです。

彼はその情景を見ました。

それが幼い頃から顔見知りのナザレのイエスでした。

バプテスマのヨハネとイエス様はいとこ同士ですから、当然知っているはずですが、

「わたしはこの人を知らなかった。」
(ヨハネ1:33)

と言っています。

人間としては知っていたが、神からの救い主であったということは、この時初めて知ったということです。

「世の罪を取り除く神の小羊」
(ヨハネ1:29)

この存在を知った時に、自分とイエス・キリストとの関わりが生まれるのです。

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「罪」とは原語で「的外れ」という意味を持っています。

弓矢を的以外のところに飛ばすことが罪です。

そして、的を正確に目指していても、そこに到達しないで手前に落ちてしまうのも「的外れ」に該当するので罪と判断されます。

たとえて言えば、借金1億円を最初から踏み倒そうとするのは当然罪。しかし、まじめに返そうとして返しきれないのも罪、ということです。

イエス様が素晴らしいのは、そういう罪人を何とかしてやろうとか、罪人を滅ぼすと言っているのではなく、私たちの罪の身代わりとなってくださるということなのです。

「世の罪を取り除く神の小羊」
(ヨハネ1:29)

とは、自ら犠牲(いけにえ)となって下さる方だとバプテスマのヨハネはイエス様を紹介しています。

その時はそういうつもりでなく始めたのに、都合が悪くなるとコロッと変わってしまう自分を見出す時こそ、この救い主イエスと出会う最短距離にいるのです。

「それはしょうがなかったんだ」とか「みんながやっていることだ」などとごまかさないで、「それは私が責任を負うべきことなのだ」「私は本当に約束を守れない者です」と、きちんと自分は罪人だと認める時、一番イエス様と近いところにいるのです。

そうすると、イエス様と出会うことができます。

あなたの気になっている過去、いつか誰かに突っつかれるかもしれないと怯えている昔の出来事。

それらを全部赦してくれ、身代わりになって犠牲になってくれる御方。

それがイエス・キリスト、世の罪を取り除く神の小羊です。

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キリストの罪の赦しと身代わりになってあなたを解放してくださるという約束を受け入れる人生を歩んで参りましょう。

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