今日のみ言葉【No.1422】(2016年11月28日) 047 「裏切ることを予告されたユダ」(3)

「友よ、なんのためにきたのか」
(マタイ26:50)

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私の好きな洋楽にビリー・ジョエルの「Honesty(オネスティ)」があります。

名曲です。テレビCMにもよく使われているので、どこかで聞いた覚えがあるはずです。

●東京ドーム公演の動画
https://www.youtube.com/watch?v=LNpbDzNG45Q

特にサビの部分の歌詞が聞く人の共感を呼んだのではないでしょうか。

“Honesty is such a lonely word."
「誠実――何と空しい言葉だろう」

“Everyone is so untrue."
「誰もがあまりにも不誠実だから」

“Honesty is hardly ever heard."
「誠実――聞いたことすらない」

“And mostly what I need from you."
「でも、あなたに欲しいものはそれなんだ」

残念ながら、人が相手に誠実さを求め、裏切られ続けるのは世の常です。

嘘をつかれ、騙されたら、相手に何とかして償いをさせたいと思います。

それを求めることが無理だとわかれば、その人と手を切らなければなりません。

でないと、自分が傷つき続けてしまいます。

これが人間の限界です。

その限界を超えた愛を示したのがイエス・キリストのユダに対する態度です。

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自分を愛してくれる者を愛することはたやすいことです。

しかしイエス様は

「罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している」
(ルカ6:32)

と語られています。

むしろ、

「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」
(マタイ5:44)

とおっしゃいました。

その時に愛が本物であるかどうかがわかるからです。

外の敵と戦うことはまだ易しいことです。

しかし、内側に敵が現れるということは、大きな痛手を味わいます。

自分の愛する弟子が敵に回るという、耐えられないような悲しみの中で、イエス様はユダに最後の最後まで悔い改めのチャンスを与え、尊敬すべき人格的存在として接しました。

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イエス様がユダと最後に顔を合わせたのは、ゲッセマネの園でユダがイエス様に接吻しようとした時です。

「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」
(マタイ26:48)

とユダはイエス様を捕縛するために集まった人々に、前もって合図をしていました。

ユダがその行為に及んだ時、イエス様が彼に語った言葉が彼に対する最後の言葉となりました。

それはどういう言葉だったでしょう?

怒りと罵りの言葉?

嘆きと絶望の言葉?

イエス様はユダにこう語られました。

「友よ、なんのためにきたのか」
(マタイ26:50)

最後の最後まで、ユダを「友」と呼び、「なんのためにきたのか」と問うことによって、裏切ることもそれをやめることもできるように考えるチャンスを与えられたのです。

これが敵に対してイエス様が示された愛です。

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イエス・キリストは、 あなたを人間として扱い、最後まで愛されるお方です。

残念ながら、ユダはこの愛の中に包まれていながら、全く感じていませんでした。

あるいは、自分から無視していたのかもしれません。

それと同様に、私たちが神様の愛を感じることもなく、また、あえて無視をしていたとしても、神の深い愛は変わらずに私たちの上に注がれています。

その愛を意識する今日の一日としたいものです。

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