今日のみ言葉【No.1423】(2016年11月29日) 048 「否認を予告されたペテロ」(1)
今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。
(マタイ26:31)
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「先生につまずきました」
そう言って教会を去る人を見送った体験を持たない牧師はいません。
神はあえてそのように双方共に傷つく悲しい体験を起こるがままにさせておかれます。
神はその挫折体験を用いて、人に従順と謙遜、そして強さを身につけさせるからです。
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イエス様は弟子たちに
「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。」
(マタイ26:31)
と告げられました。
そして、旧約聖書ゼカリヤ書第13章7節の言葉を引用されました。
「『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。」
(マタイ26:31)
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「つまずく」とは「神様がわからなくなった」という体験をするということです。
よく聞く例は
「聖書の言葉通りやったけど、そうならない」
「祈っても、結局助けは来なかった」
「これがキリスト教か。生きて働く神はどこにいる」
というものです。
神につまずき、人につまずき、祈りにつまずき、心の生傷だらけで立ち上がることができません。
それに対して、「な〜に、疲れただけだよ」と一蹴することもできます。
確かに、ダメージを受けても回復が早い人はいらっしゃいます。
また、挫折を多く経験すると、人はそこからいかにして自分を立ち直らせるかの技術を習得するものです。
しかし、しかしです。
「まさかあの人がそうなるなんて…」
「まさか自分がこうなるとは…」
という現実を見なければならなくなった時、そのショックは相当大きいものです。
それを乗り越え、その先も大丈夫なのだと教えるために、あえてイエス様は
「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。」
(マタイ26:31)
と予告をなさったのです。
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ゼカリヤ書第13章7節以降を読むと、
・打たれる羊飼とはイエス・キリストのこと
・羊は精錬されるために散らされる
・最終的に羊は神のみもとに導かれる
ということが分かります。
弟子たちはこの後、予想もしなかったほどの失望落胆の末、故郷のガリラヤに戻っていきますが、イエス様は「先にガリラヤに」行くとも約束しておられます。
イエス様は、散らされた者、つまづいた者の先に立って導かれるという約束通りに行動されるのです。
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神に献身し、牧師・伝道者になろうとする人は、
「必ず挫折しなければならない」
と表現せずにはおれないくらい、挫折と行き詰まりを経験させられます。
自分の力で神のわざをなしたと言わせないための神のご配慮なのだと思います。
とにかく一度は、
「私には神様の御用などできるはずがない。そんな力など無い」
「神様からの召命の御言葉…。あれは聞き間違いだった。自分の心の中の願望を神様から聞いたと錯覚したのだ」
などと思って逃げ出します。
突然教会から姿をくらます人、実家に帰る人などはわかりやすい方です。
そこまで強くない人は、無意識に自分の体に病気を招き、周りから「仕方がない」と太鼓判を押してもらってからようやく離れます。
「私って一体何なんだろうなあ」
「神様って、どこにいるのかなあ」
そういう時期をしばらく通らされます。
そして、一生懸命神様がいらっしゃる痕跡でも探そうとしますが、見えませんし分かりません。
この期間、姿を見せないことが神様側のお仕事だからです。
そして、どうしようもなくなって、本当に無理なのだ、とわかった時に、不思議と神様側から探し当てられ、
「もう一度やってみないか」
と声がかけられます。
ここで、「やる」とも「やらない」とも言うことができず、
「御心ならばお従いいたします」
という本当の献身ができるのです。
ここまでが神の器となるための下ごしらえです。
こういう人となって初めて、神はご自身の器として、自由自在にその人を用いることができるようになるのです。
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挫折と行き詰まりはあって当たり前です。
神はそれを必要なものとして用いられます。
全てに神の愛のご計画があると信じて、今日もチャレンジして参りましょう。
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