今日のみ言葉【No.1408】(2016年11月10日) 042 「盲人バルテマイ」(3)

イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。
(マルコ10:51)

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盲人バルテマイの記事の最後の登場人物はイエス・キリストです。

イエス様がバルテマイにかけた言葉は

「わたしに何をしてほしいのか」
(マルコ10:51)

でした。

イエス様はしばしば、このようにあまりにも分かり切ったことを尋ねられます。

それは、彼の心の中にある信仰を、更に明確な形で外に表し、自分が何を願っているのかをはっきりさせるためです。

イエス様は癒し主で、人を癒す力を持っています。

ただし、その力は、主への信頼があるときにのみ解放されます。

バルテマイは即座に答えました。

「先生、見えるようになることです」
(マルコ10:51)

バルテマイに語られたように、イエス様は私たちに同じ質問を、今、この瞬間もしておられます。

「わたしに何をしてほしいのか」

この質問に対して返答ができるように、日々の葛藤と祈りがあるのではないでしょうか?

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戦後まもなく、僻地医療の志を高く持ったクリスチャンのお医者さんがいました。

「医者の言葉は神の言葉」と言われていた時代です。

その農村の人たちからは、本当に神様のように崇められていました。

さて、ある日、いつものように診療を始めると、無言の患者さんが入って来ました。

ドクターが、

「どうなさいましたか?」

「どこが悪いのですか?」

と問うてみても、一切話しません。

しびれを切らしたお医者さんが、

「何も話さなければ何もわかりませんね。それでは治療のしようがありません。」

と少々キツ目に言うと、患者さんはようやく口を開きました。

「先生、先生は名医だべ。んだがら、おらが何にも言わねくても、悪いどご、全部分かってっと思ってだ。」

嘘のような本当の話です。

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その時、このお医者さんは、クリスチャンはなぜ祈らなければならないかの解答を得たと後に述懐しています。

神が全知全能であり、人の心の中の思いまで知っておられるなら、私たちが祈りを言葉にする前から既にご存知のはずです。

もしそうであるなら、人間が祈る前に神様が全部そのことをかなえてくれてもいいのに、なぜわざわざ祈らなければならないのか、と、彼は長年疑問に思っていました。

その解答が瞬間的に与えられました。

祈りとは信頼だったのです。

はっきりとした言葉で祈るとは、自分の要望を正しく神に伝えることのように思えますが、それは表面上のことです。

「先生、見えるようになることです」
(マルコ10:51)

とは、もちろん目の癒しを望むということですが、その背後には、

「あなたは癒すことがおできになります」

という信仰と信頼が存在しています。

患者さんが「先生、ここが痛いんです。ここが悪いんです」と言って来るのは、医者は私を治してくれる、と信じているがゆえです。

信仰の言葉を発するのが祈りなのです。

このドクターはそれ以来、安心して祈るようになりました。

そして、あれほど理屈っぽかった彼でしたが、

「子どものように神様に祈っています」

と人々に語るクリスチャン医師として、その生涯を全うされました。

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イエス・キリストは、あなたに向かって「わたしに何をしてほしいのか」と問いかけるお方です。

即座に答えられるように、自分の本心を探る一日として参りましょう。

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