今日のみ言葉【No.1383】(2016年10月 5日) 034 「口をきけなくする霊につかれている息子とその父」(2)

イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。
(マルコ9:23-24)

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宮大工修行中の小川さんは、見学のため浄瑠璃寺へ行きました。

帰ると棟梁が怒っています。

見る目ができていないのに行ってもむだだ、というのが理由です。

弟子時代の小川さんには棟梁の真意がわかりませんでした。

しかし、時が経ち、自分が同じ立場になってみると、よくわかると言います。

「見る目がないときに、ものを見に行くと、人の言葉を借りて見るだけだな。結局、あの曲線が美しいと本やパンフレットに書いてあることを評論家みたいにいうだけだ。思ってもいないことをだ」
(小川三夫著,『不揃いの木を組む』,文春文庫)

人は心にありもしない模範解答を言うことがあります。

マルコ9章の父親はそこから自分の真の姿を見出し、信仰の叫びを上げた人です。

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彼はイエス様に最初、こう頼みました。

「できますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」
(マルコ9:22)

イエス様は彼の言葉に、謙遜そうでいて実は十分に信頼していない不信仰の芽を見て取りました。

そこで彼に一喝します。

「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」
(マルコ9:23)

父親は震え上がりました。

お弟子さんたちが自分の子を癒せなかったのは、神の力を信じ切れない不十分な信仰のせいであったことを目の当たりにしていたからです。

それが今度は自分に向かって適用されようとしています。

つまり、子供が癒される癒されないは、自分が神を信じられるかどうかにかかっているのだ、とイエス様に迫られたのです。

ですから彼はすぐ叫びました。

「信じます」

しかし次の瞬間、

「いやそれは嘘だ。模範解答だ。やっぱり無理かもしれない」

という思いが心に入ってきます。

それが人間のありのままの姿なのです。

どうしようもなくなった彼が言った言葉こそ、自分の正確な現在位置から出た真実の叫びでした。

「不信仰なわたしを、お助けください」
(マルコ9:24)

これこそ信仰の言葉です。

神を100%信じられないので我が子を助けられない自分。

この自分を救うことができるのはあなただけです、という信仰が、ギリギリのところで明確になったのです。

イエス様は父親からこの信仰を引き出して下さり、その信仰によって子供の癒しをなさいました。

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神を信じると言っておきながら、信じられないのが私たちです。

その自分を救って下さる御方がいらっしゃるという恵みをかみしめながら、今日の一日を歩んで参りましょう。

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