今日のみ言葉【No.1370】(2016年 9月20日) 030 「耳が聞こえず、口のきけない人」(1)

そこで、イエスは彼ひとりを群衆の中から連れ出し
(マルコ7:33)

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私の娘は1歳半ぐらいの頃から言葉をしゃべり始めました。

父親の私には高音の裏声で

「パ〜パ↑」

という感じで言います。

娘の言うことは何でも聞く完全受容態勢の父親ですから、それも当然でしょう(^^)。

ところが、母親に対しては、低音で呼ぶのです。

「ママー↓」

母親ですから「しつけ」をしなければなりません。

本人はもっと食べたいのに、

「あと終わり。ナイナイ!」

などと言って対決するシーンが出てきます。

ですから、本音のメロディが出てくるのでしょう。

そのままで受け入れらることと、あるべき姿へと成長させようとすること。

両方共に愛であり、人間はその相反する方向に見える愛に囲まれて健全に成長していくのです。

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マルコによる福音書7章31節〜37節に出てくる「耳が聞こえず口のきけない人」も、周囲の人から愛されていたことは間違いありません。

人々が彼をイエス様のところに連れてきたことからそれがわかります。

「すると人々は、耳が聞えず口のきけない人を、みもとに連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いした。」
(マルコ7:32)

サッカーで言えば、熱烈なサポーターの応援に囲まれてスタジアム入りしたようなものです。

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ところが、滅多に無いことですが、イエス様は彼を愛ある人々から引き離し、たった一人にしました。

「そこで、イエスは彼ひとりを群衆の中から連れ出し」
(マルコ7:33)

他の聖書個所では、本人の信仰ではなく、周りの人の信仰を通して癒しの御業をなさったことがあるイエス様です。

周囲の愛ある方々の「必ず癒される!」という熱烈な信仰があれば、神の御わざは進みやすいのではないでしょうか?

しかしイエス様は彼を一人にしました。

それは、人にではなく、神にのみ信頼するためでした。

これはイエス様からの「しつけ」のようなものであったかもしれません。

周りの人々がいなければ何もできない人として生きるのではなく、神を信頼して自立する人へと。

そして、今度は周囲の人々を支えてあげる人へと成長する。

イエス様はそのような希望ある未来を見て、あえて周囲の人々の愛を断ち切り、神との信頼関係を結ばせるようになさったのです。

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カウンセリングの世界でも同じようなことが起きます。

相談に来られる方に対して、カウンセラーは基本的に「教える」ということをしません。

解決策を先に教えるということは、相手に問題解決能力がない、と見越してのことです。

つまり、

「あなたには力がありませんよ」

という隠れたメッセージを通知しているようなものだからです。

この人には問題を解決する力がある。この問題を通して成長していく素養がある。

その希望を抱いて相手と関わっていく時、その人はカウンセラーの中にある希望を踏み台やバネにして飛んでいきます。

安易に答えが与えられることによって、かえってその人の成長が阻害されることがあります。

答が与えられず、問題解決が見えない状況の中にあって、

「辛いね、迷うね、どうしたらいいかわからないよね」

と苦しい感覚を共にし、

「でも、きっとあなたなら、あなたなりの解答を出せるはずだよ」

と励まし、希望を持って寄り添ってくれるカウンセラーがいたら、必ずその人ならではの解答を見出し、自立した人生を送っていくはずです。

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キリストとあなたの「ふたりぼっち」の時こそ恵みの時です。

神と共に、人生の答えを見つけながら、今日も歩いて参りましょう。

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