今日のみ言葉【No.1327】(2016年 7月12日) 015 「やもめとそのひとり息子」(2)

主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、
(ルカ7:13)

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ひとり息子の死に対して為すすべもなく、棺を担いだ行列はただ墓に向かって進んでいきました。

その途中で、いのちの主であるイエス様と弟子達、そしてその後に続く大群衆という行列とすれ違ったことは大変対照的です。

このやもめを見たイエス様の姿を、口語訳聖書では

「深い同情を寄せられ」

と訳し出しています。

新改訳聖書では「かわいそうに思い」、新共同訳聖書では「憐れに思い」と訳されていますが、原語のギリシャ語を見ると、「腸」に由来する特別の言葉が使われています。

古代ギリシャ・ヘブルでは人間の愛や憐れみは「腸(はらわた)」にあると考えられていたからです。

日本語でも「はらわたがかきむしられる思い」などという表現がありますが、私たちが直感的にわかる表現です。

ですからここは、岩波訳の

「腸がちぎれる想いに駆られ」

がイエス様の思いに最も近い翻訳だと考えられます。

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イエス・キリストは、このような深い愛を持って私たちに近づいて下さる御方です。

しかし、このやもめはそんな大きな愛で愛されていることなど一切感じず、ただ失望と悲しみの中に沈んでいました。

それはちょうど、インフルエンザにかかって高熱を発している子供のようなものです。

苦しくてどうしようもなく、ただ耐えるのみの状態ですが、実はそのそばに心配で夜も眠れぬ親がいます。

事実はそうであっても、高熱でうなされている子供は、その親の深い愛を感じたくても感じることなどできないくらいの苦しみで、心も体も覆われています。

私たちがこのような状態の時、キリストは近づいていてくださるのです。

苦しみから解放され、ホッとしてキリストを意識するということもありますが、真の出会いは、苦しみのただ中で、同じ苦しみを腹の底から味わっていて下さるイエス様と出会うことです。

苦しみを共に味わい続けて下さるイエス様との出会い。

それが平安の泉の源です。

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苦しみの中での平安を味わう一日として参りましょう。

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