今日のみ言葉【No.1261】(2016年 4月 7日)

主なる神の前に沈黙せよ。
(ゼパニヤ1:7)

——————

ゼパニヤは王家の血筋を引く者でした。

彼は、国のリーダーとなる層の人々が真の神から離れ、アッスリヤの影響を受けて異教習慣に身を染めていくのを黙って見ているわけには行きませんでした。

神の裁きは貴族階級である彼らから始まります。

能力や賜物が多く与えられた者からは、神はその応答としての責務を多く要求されるからです。

「多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。」
(ルカ12:48)

-*-*-*-*-*-*-

しかし、

「払うべきものを払え」

と言われて、すぐ出す人はまれです。

多くの場合、言い訳をして引き延ばし、最後には拒否する構えでいるものです。

ですから神はゼパニヤを通して、

「主なる神の前に沈黙せよ。」
(ゼパニヤ1:7)

と強い調子で人々に語られました。

これは普通に静かにしている、ということ以上に、「あなたには語らせない」という意味の言葉です。

「静かにしなさい」

という言葉で分からせようとするより、

「シーッ!」

と唇の前に人差し指を立ててにらまれているような感じです。

神の前で語らせてもらえない時があるのです。

しかしそれは、私たちが神からあまりにも逸れているためであり、そこから引き戻し、御自身のもとに取り戻したいという神の強い愛の現れでもあります。

その事がわかると、

「黙っていなさい!」

という命令も、愛に裏打ちされた強烈な言葉なのだ、と受け止めていくことができます。

-*-*-*-*-*-*-

「最近の高校生は、授業中、黙って話を聞かずにしゃべってばかりいる」

こんな話を聞くことがあります。

昭和の時代、授業では質問の時以外、ずっと黙って先生の話を聞いていることが当たり前でしたが、自分の個性を主張する自由が当たり前になった平成の時代はそうも行かないようです。

ただ、私が高校で講演をしたり、授業を受け持った範囲内に限りますが、黙って静かに聞く人たちは多く存在します。

よく観察すると、自分は何のためにここにいて何をするためにこの話を聞いているのか、という目的意識がはっきりしている人は黙って先生の話から一生懸命吸収しようとしています。

その間、隣の人としゃべっている生徒さんも、自分と関係することになるとおしゃべりをやめ、こちらを振り向き、黙って話を聞き出します。

「はー、全部吸収しようとする人と、必要なことだけ吸収しようとする人の差か…」

と思わされます。

エンジン全開運転の人と、省エネ運転の人と、様々な違いがあるということです。

しかし中には何の目的意識もなく、ただ時を過ごすためにだけ教室にいる人もいます。

また、この場所にいるのとは全く違う目的意識を持った人もいます。英語の授業中なのに部活のことを考えている生徒などがこれに当たります。

そういった人たちに対しては、「あなたの態度は違うよ」と指摘し、この場所での本来のあり方に戻すことが教師の仕事です。

丹念に忍耐を持って指導しますが、それでもこちらの言うことを聞かない時には、

「勝手にしろ!それで将来どうなっても君の責任だよ!」

とか、

「もらってる給料分だけ働けばいいのだ。それ以上はしなくてもいいのだ。」

という気持ちがわき起こってきます。

ここから先に進めようとすれば、対立と衝突が待っていることが予想されるからです。

そんな面倒くさいことをするよりも、何事もなく平穏に進めたいものです。

しかしそこで、あえて

「黙れ!」

と叱り、指導していくには、相当の愛の準備が必要であることを私は身をもって知らされています。

-*-*-*-*-*-*-

神の裁きの背後には、必ずこの大いなる愛があることを忘れずに、今日の様々な出来事に取り組んで参りましょう。

-*-*-*-*-*-*-

●配信停止は下記に空メールを送信して下さい。
del@mikotoba.org

●お申し込みも同様です。
reg@mikotoba.org