今日のみ言葉【No.1010】(2015年 3月23日)
うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。
(箴言30:8)
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私が昔よく行ったラーメン屋のおばちゃんは、どこか品のある凛とした雰囲気を持っていました。
聞けば北海道の函館出身。子どもの頃、今ほど有名でなかったトラピスチヌ修道院の庭で友達みんなと遊んでいたそうです。
夕方、子どもたちが集められ、シスターからお話を聞きます。
その時心に与えられた「神様はあなたを愛しておられます」という言葉が、心の栄養となり、このおばちゃんを造ったのだなと思わされました。
今ではおみやげの定番となったあのお菓子をもらえたかどうかは分かりませんが、なくてならぬ心の食物をいただいたおばちゃんは、薄暗い厨房で輝きを放っていました。
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今日の聖句のごとく、「貧しくもなく、また富みもせず」という満足した平安な人生を歩みたいものです。
ところが聖書には、これとはまた違う言葉が記されています。
「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。」
(マタイ13:12)
格差社会の肯定でしょうか?経済学の法則でしょうか?
聖書を読む時は、その文脈の中でどうなのか、ということを心して読まなければなりません。
ただ一つの言葉を取り上げて、それだけを根拠にして論じては、正しい意味をくみ取れるとは言えません。
経済の強者はますます富を蓄え、経済的弱者はますます貧しくなっていくという現実を正当化するために御言葉を利用してはいけないのです。
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ここは種まきのたとえの個所です。
続く13節にこうあります。
「だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。」
御言葉を聞いて悟るかどうかがポイントです。
「そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」
(マタイ13:23)
なくてならぬ食物とは御言葉です。
ただし、その御言葉を悟ろうとする心があるかどうか。
これが現実生活で実を結ぶかどうかの分岐地点となります。
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「うそ、偽りをわたしから遠ざけ」という生活態度がこれをもたらします。
人間ですから、生きていればどこかで汚れがつきます。
心の汚れ、罪というものは早めに神に告白し、その都度、ゆるしをいただくことがよいのです。
そうすれば、神の御言葉は甘い蜜となり、慕わしいものとなります。
しかし、罪を持ったままでいて、同時に善人ぶり、自分のやっていることは正しいもの、と装っていると、御言葉は剣となってあなたに迫ります。
そのように
「うそ、偽りをわたしから遠ざけ」
とは反対の生活をしていると、聖書から離れたくなります。
必然的に、御言葉を悟るという方向には行かなくなることでしょう。
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今がチャンスなのです。
この御言葉メールに触れている今、
「うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。」
と祈り、神に方向転換する悔い改めの時を持つのです。
そのあなたを、神は必ず養って下さいます。
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。」
(詩篇23:1)
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神に祈る時を持って参りましょう。
神はなくてならぬ食物でわたしたちを養ってくださいます。
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