今日のみ言葉【No.1006】(2015年 3月17日)
なまけ者は手を皿に入れても、それを口に持ってゆくことをいとう。
(箴言26:15)
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箴言第26章には3種類の人間が出てきます。
愚かな者、なまけ者、そして理不尽な人です。
ここでの愚かな者とは、頭が良いはずなのに愚かな行為を繰り返す人のことを言っています。
また、なまけ者とは、何かを始めても行動が続かない人です。
理不尽な人とは、今で言えばモラハラ・パワハラをする人で、自分は正しいと思って相手を攻撃します。
心の中に隠れた不安を抱える人たちは、何かのきっかけで心のガソリンに火がつき、意外な時に爆発します。
これらの人たちは反面教師なのです。
私たちにもその可能性があり、いつその芽が吹き出すか分からないのが実状です。
ですから、聖書を鏡として毎日自分を映し出す時が必要です。
寝癖がついた髪をとかし、服装をチェックしてから人前に出るように、心も同じく聖書の鏡に写る自分を見て、整えて一日を始めるのです。
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私が聖書を買った時、牧師が2番目に示してくれたのが今日の聖句でした。
1番目が
「なまけ者よ、ありのところへ行き、そのすることを見て、知恵を得よ。」
(箴言6:6)
でしたから、働き者の牧師からしたら相当な怠け者・極楽トンボに見えたのでしょう。
しかし、
「なまけ者は手を皿に入れても、それを口に持ってゆくことをいとう」
と言われても、怒る気はせず、「当たってる。本当だ」と笑うしかありませんでした。
その後、周りの方々の助けとご訓練により、何とか外側の形はつけていただきましたが、中身はまだまだです。
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さて、55歳になった私が最近気づいたことがあります。
それは、昔の私と同じように、ヘラヘラチャラチャラしている若い人たちを見ると、愛の眼差しを向けると言うより、厳しい視線で見ていることです。
「何やってんだ…」
「今の内にガツンと言ってやらないとな」
頭では「愛で包む」という模範解答が分かっているのに、その反対の行動に出てしまう「愚かな者」になっていたのです。
なぜこんな思いが湧いてきたのか、考えてみました。
それは私自身が「怠け者の私」をゆるしていないからです。
イエス様の十字架によって神は私の全ての罪を許して下さり、その中に「なまけ」の罪も入っているはずなのです。
しかし、神は赦しても、自分は自分をゆるさないでいます。
そうすると、どんなことが起きるでしょう?
将来のことを甘く見て、何も考えずに遊んでいるキリギリスが目に入ると、その中に自分の姿がクッキリと見えるのです。
あってはならない自分が堂々と目の前でウロウロしているので、何とかしてかき消したくなります。
しかし50代の大人は、「ウザイ」「消えろ」などと中学生のようなことは言えません。
自分を正義の味方にする一番上手な選択は何か…、と瞬間的に自分を守る知恵が働きます。
それが、
「相手のためを思ってのアドバイス」
という形を取って表に出てくるのです。
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対処法はただ一つ。イエス様の十字架の赦しを今一度自分に適用し、自分を赦すことを始めることです。
怠け者の私を赦し、怠け者の私を受け入れ、神様が必ず変えて下さると信じてゆだねるのです。
すると、キリギリスばかり見えていた世の中が、前途有望なアリにあふれた世界に変わります。
そして、
「何か少しでもお手伝いができないだろうか」
という思いが湧いている働き者の自分になっていることに気づくことでしょう。
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神のゆるしを受け入れ、神にゆだねる一日を過ごして参りましょう。
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