今日のみ言葉【No.533】(2013年 3月22日)
またぶどう畑のぶどうを摘み取るときは、その残ったものを、ふたたび捜してはならない。それを寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。
(申命記24:21)
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今日の聖句を読むと、ずいぶん雑な収穫の仕方をするものだ、と思います。
神から与えられたぶどうなのですから、感謝して全ていただかなければならないのではないでしょうか?
しかしそれには理由がありました。
「寄留の他国人と孤児と寡婦」
という弱い立場の人たちのために残しておくためです。
更に続く22節で、
「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったことを記憶しなければならない。それでわたしはあなたにこの事をせよと命じるのである。」
とあります。
つまり、今は豊かになっていても、かつては自分たちも同じように力無く、明日の保証もない時代を過ごしていた、ということをイスラエルの民に思い起こさせるためだったのです。
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自分の原点に帰り、事あるごとにそれを意識することは非常に大切です。
「私にはああいう時代があった」
「私はあそこから救われた」
神の愛と憐れみによって今がある、と、原点に戻り、自分が体験した憐れみを思い起こすのです。
それがあなたの内なる命の泉となり、神の愛が流れ出し、他者へとあふれ出す泉となるのです。
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心に痛みや傷がある人が24時間営業で一生懸命している仕事があります。
それは「人を試す」という仕事です。
人の心をガリッと引っかき、その流れる血で心の渇きを癒そうとしているかのようです。
相手を困らせるような状況を作り、その人にとって不利益な状況で出されるものが怒りなのか愛なのか、と、じっと見ているのです。
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暴走族のA少年は警察に捕まり、少年院行きか保護観察付きで教会で暮らすか、の二者択一を迫られました。
彼は「少年院行きだけは嫌だ」という理由で、キリスト教会がどういう所かも分からずに送り届けられてきました。
寮の準備が整うまでの数日間、牧師館の一室で寝泊まりしましたが、夜中に
「お腹が痛い」
と牧師夫妻を起こしました。
「薬を飲むか」
と牧師が言うと、
「いいえ、いいです。今は痛くなくなりました。」
「そうか。じゃ、ゆっくりお休みなさい。」
…。
こんなことを夜中に何度も繰り返すのです。
無意識に人を試すとはこういうことです。本人も牧師を試すために起こしてやろうなどとは思ってもいません。
しかし期待しているのは、
「一体どういうつもりだ!何回やれば気がすむんだ!」
という怒りの言葉なのです。
相手を傷つけ、怒らせ、そして、
「やっぱりそうだ。私は怒られるくらいダメな人間なんだ。」
と証明された時点でホッとして寝るのです。
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彼は「お腹が痛い」と言うたびに
「そうか、それは大変だな。大丈夫か。」
と変わらずに言ってもらえた愛によって心が癒されていきました。
彼にとっての原点は、あの
「お腹が痛い」
だったのです。
そしてその時受けた愛によって、彼はその後、見事に更生し、人をお世話する仕事に携わっています。
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私たちの原点はどこでしょうか?
そこに立ち返り、今一度神の愛を確認する一日として参りましょう。
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