今日のみ言葉【No.3680】(2025年 7月11日)「パリサイ人と取税人のたとえ話(2)」
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
(ルカ18:11-12)
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もし、あなたが通う教会で、
「わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」
と言い、実際に実行している人がいるとしたらどうでしょう。
皆から素晴らしいクリスチャンだと賞賛され、礼拝説教の中で、
「○○さんのようになりましょう」
と取り上げられるかもしれません。
パリサイ人の行動が称賛に値するものであったことは、確かに間違いありません。
では、その祈りの本質はどうだったのでしょうか。
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パリサイ人の祈りが11〜12節に記されています。
その情景を理解するために、少し補足を加えておきましょう。
聖書本文には書かれていませんが、間違いなくパリサイ人は神への捧げものを持ってきています。
また、祭司が聖所で彼のために香を焚いていたことも容易に想像されます。
両手と顔を上げ、目を天に向けて祈るのがユダヤでは普通の祈りの姿ですから、彼は立って祈っています。
堂々とした美しい姿勢が思い浮かべられます。
それが、
「パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った」
(ルカ18:11)
という節の意味です。
外面的には、申し分のない祈りの姿といえるでしょう。
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では、内面を探っていきましょう。
第一に、パリサイ人の祈りは「自慢の祈り」でした。
「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく」
(ルカ18:11)
これは道徳的自慢です。
「わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」
(ルカ18:12)
これは宗教的自慢です。
第二に、彼の祈りは「比較の祈り」であったことが分かります。
このパリサイ人は、おそらく横目でチラリと取税人の存在を見ていたのでしょう。
「また、この取税人のような人間でもないことを感謝します」
(ルカ18:11)
この祈りは、神に向かって語っているというよりは、自分自身に語りかけている独り言です。
神に届いているとは言えません。
では、神に届く祈りとはどういうものなのでしょう。
それが次回取り上げる取税人の祈りです。
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パリサイ人を反面教師として、自分の祈りのあり方を振り返る一日としてまいりましょう。
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