今日のみ言葉【No.793】(2014年 3月22日)

見よ、神に戒められる人はさいわいだ。
(ヨブ記5:17)

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死を間近にしている方の病床で読む聖書個所の定番は、詩篇第23篇です。

これは洋の東西を問わず、全世界のクリスチャンに共通しています。

「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。」
(詩篇23:4)

難しいことは何も言っていないのに、心に深い慰めと平安を与える聖書個所です。

このように、何気ない言葉でありながら深く心に刻まれる言葉と、綺麗で正確な言葉でありながら、心の上っ面を滑り落ちて、残らない言葉もあります。

その違いとは何でしょうか?

前者は神の言葉、後者はヨブ記のエリパズの言葉です。

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第5章でエリパズは非の打ち所のない程の神学理論をとうとうと述べます。

ただ、私がヨブであったら、おそらく心の中に起きる反発と抵抗を抑えながら聞くだろうとなあ、と思います。

「見よ、神に戒められる人はさいわいだ。」
 ↓
(ああ、そうですか。そういうもんですか。)

「それゆえ全能者の懲しめを軽んじてはならない。」
 ↓
(はい、左様ですよね。神は全能ですから。)

「彼は傷つけ、また包み、撃ち、またその手をもっていやされる。」
 ↓
(でも私、今、痛いんですけど…)

「彼はあなたを六つの悩みから救い、七つのうちでも、災はあなたに触れることがない。」
 ↓
(おい、もういい加減にしろ(# ゜Д゜)!)

エリパズの言葉は綺麗な言葉ですが、なぜか心に響きません。

むしろ怒りが引き出されるような感じがします。

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それに比べて、イエス・キリストの言葉は何と心に染み渡ってくるでしょうか。

同じ「さいわい」という言葉を使っても、

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」
(マタイ5:3)

「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。」
(マタイ5:4)

では響きが違ってくるように思います。

その理由はおそらく、イエス様ご自身が私たちと同じように苦しみと悲しみを味わった方だからだと思われます。

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悲しみを知らない人から

「悲しんでいる人たちは、さいわいである」

と言われたら、

「バカにするな!あんたにこの気持ちがわかってたまるものか!」

と心が騒ぎ立つかもしれません。

しかし、同じ悲しみを味わった人から

「悲しんでいる人たちは、さいわいである」

と言われたなら、

「そうですか、あなたは立ち直れたんですね。でも私はまだ無理なようです…。」

と心の内をつらつらと語り出せるような気がします。

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イエス・キリストは苦しみと悲しみを知っておられます。

「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。」
(ヘブル2:18)

「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。」
(ヘブル4:15)

そして復活し、死に勝利されたお方です。

ですから、主イエスは悲しみの終わりをご存知であり、悲しみが消えることも残ることも全て知っておられます。

その上で、

「悲しんでいる人たちは、さいわいである」

と私たちに告げておられるのです。

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理論理屈でなく、この方の言葉に賭け、信頼して生きていく時、悲しみはさいわいへと変えられていきます。

イエス様に依りすがり、悲しみに慰めを得ながら、今日という日を送ってまいりましょう。

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