今日のみ言葉【No.3371】(2024年 6月 3日)「生活の処方箋(139)『ヒマラヤの麓にて』」

ヒマラヤ山脈を背景にしたポニー

それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。
(マタイ20:18)

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ヒマラヤの麓を旅した人から伺った話です。

ここから先にバスは行かないという地点に着くと、ポニー(肩までの高さが147cm以下の小さな馬)を引き連れた大勢の人たちが、奪い合うように客を歓迎したそうです。

Aさんは、自分の中のささやかな思いやりを確認するかのように、貧しそうな身なりの人々の中から、ことのほか小さな少年と一まわり小さいポニーを選びました。

荷物をポニーの鞍に乗せようとすると、少年はそれを奪い取るようにして「自分が担ぐ」と言い、ポニーよりも少し遅れてあえぎながら荷物を背負ってきました。

それが、ポニーに少しでも楽をさせてあげたいという少年の気持ちからであることを知った時、自分のささやかな思いやりなど吹き飛び、心震えるぬくもりの体験だったそうです。

貧しさや試練の中に、本来、人間に与えられている尊いものが隠されているのかもしれません。

(※田中信生の『生活の処方箋』より)

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上から目線という言葉がありますが、この旅人の思いやりは、上から下へ向けてのあわれみでした。

豊かで優位な立場から、ほんの少しの憐れみをかけ、それで自分が満足する。

その構図が透けて見えそうです。

ところが、少年はそれとは全く別次元を生きていました。

彼にとって、憐れみでも商売でも何でも良く、ただお金をいただけて、生きていければそれで十分。

生活を支えてくれるポニーに負担をかけさせまいとして、彼は必死に荷物を背負ったのでしょう。

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命むき出しの姿から命の輝きが顔を現します。

イエス・キリストが、

「それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」
(マタイ20:18)

と言われたのは、礼儀作法として人にお仕えするというレベルではなく、

「自分の命を与える」

という、まさに命そのものがむき出しになり、表にさらされるレベルのことです。

この真正面から来る愛に、人の心は言い知れぬ何ものかを感じ、動かされていくのです。

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命そのものに触れる人生を送りたいと願う人は、そのことを神に願い求めましょう。

神は必ずそのような出会いを与えて下さいます。

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